ラテン語の語順について

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ラテン語は語順が自由

ラテン語は語順が自由」と言われます。具体例をみてみましょう。

「語順が自由」とは耳あたりがよい表現です。言い方を変えれば、「語順はいつもわたしたちの予想を裏切る」ということです。これを克服すべき課題ととらえるのも一つですが、「そういうもの」と割り切ることも一つの重要な態度ではないかと思います(私はこちら派です)。

できるだけたくさんの具体例を通して「慣れる」のが一番大事です。わからないものをわかろうとする努力は大前提で、その過程をパズルのように楽しめると結果的にラテン語と長くつきあえます。

Genus hoc erat pugnae. をどう訳すか?

語彙の情報を先にお伝えします。

genusはgenus,-neris n.(方法)、hocは指示代名詞hic,haec,hoc(これ)の中性・単数・主格。eratはsum,esse(である)の直説法・未完了過去、3人称単数。pugnaeはpugna,-ae f.(戦い)の単数・属格。

これをもとにして正しく訳すと、「これが(hoc)戦いの(pugnae)方法(Genus)であった(erat)」となります。

語順どおりに単語を目で追うと、英語などの言葉になれた人の目には理解できない「でたらめ」な単語の配列に見えるでしょう。いったいこの文は誰が書いたのかといえば、あのカエサルです(『ガリア戦記』1.48)。

カエサルの『ガリア戦記』と言えば、初心者が文法を終えて最初に読むべき本のリストに必ず名を連ねるラテン語散文のお手本のような作品です。ウェルギリウスやホラーティウスの韻文ではなく、事実を正確に記述した簡潔で明瞭な文体で知られるこの作品でさえ、語順に関してはわたしたちの予想をはるかに超えた順番が目白押しです。

カギは単語の性・数・格の正確な分析です。上の答えを知ったなら、繰り返しラテン語を目で追いながら、正解とされる訳が自然に浮かぶまで繰り返し音読するなり黙読するなりしてみてください。

Ōtia dant vitia.はどう訳すか?

Ōtia dant vitia.
(ōtium,-ī n. 閑暇 dō,dare 与える vitium,-ī n. 悪徳)

Ōtiaもvitiaも複数・主格とも複数・対格ともとれます。片方が主語なら片方は目的語になります。「閑暇は悪徳を与える」とも「悪徳は閑暇を与える」とも訳せます。(ラテン語でなく)日本語の意味を考えて前者の訳を選びます。「小人閑居して不善をなす」と同じ趣旨の言葉とみなせます。

中性名詞は主格と対格が同じ形になるからこのような悩みが生じるのですね。

Cultūra animī philosophia.はどう訳すか?

Cultūra animī philosophia.
(cultūra,-ae f.耕作、耕すこと animus,-ī m.精神 philosophia,-ae f.哲学)

動詞estが省かれていて、主格が2つ、属格が1つあります。「主格Aは主格Bである(est)」というのが文の骨組みです。英語でいえばSVCの構文です。「Cultūraはphilosophiaである」としても、その逆でも文法的にはどちらでも構いません。問題はむしろanimīをどちらの名詞にかけるか?です。文法的にはどちらにかけても間違いではありません。

animīは「精神の」を意味する属格ですが、Cultūraにかけると「精神の耕作は哲学である」となり、philosophiaにかけると「耕作は精神の哲学である」となります。あるいはそれぞれの文の主語を「哲学」とみて、「哲学は精神の耕作である」または「精神の哲学は耕作である」とそれぞれ言い換えることが可能です。

どの訳を採用するにせよ、日本語として今一つピンときません。それは「語順」の話題とは離れますが、animīという「属格」の訳し方に難しさがあるためです。詳しくは「属格の様々な用法」をご覧ください。結論を述べると、「精神を耕すことが哲学である」、または「哲学は精神を耕すことである」、どちらの訳も正解です。

同じ構文の例として、Calamitās virtūtis occāsiō.があります。calamitāsは「災難」、virtūtisは「勇気の」、occāsiōは「機会」です。Cultūra animī philosophia.の属格(animī)と同じく、属格(virtūtis)を前後どちらの名詞にかけるかが解釈上のポイントになります。結論として、virtūtisはoccāsiōにかかるとみなし、「災難は勇気の機会」と訳すのが正解です。

Deus erat verbum.はどう訳すか?

Deus erat verbum.
(deus,-ī m.神 eratはsum,esseの直説法・未完了過去、3人称単数 verbum,-ī n.言葉)

eratは「AはBであった」というときの、「であった」に相当します。文法的には「神は言葉であった」としても、「言葉は神であった」としても、どちらも正解です(これは上のCultūra animī philosophia.と同じことです)。ただ、この表現は「聖書」のギリシア語の翻訳であり、ギリシア語では「言葉」に相当する単語が主語になっているので(ギリシア語は主語に定冠詞をつけるのでそれとわかる)、このラテン語も「言葉は神であった」と訳す必要があります。

Homō hominī lupus.はどう訳すか?

Homō hominī lupus.
(homō,hominis c. 人間 lupus,-ī m. 狼)

Homō(人間)とlupus(狼)はともに単数・主格です。hominīは「人間にとって」を意味する単数・与格です(「判断者の与格」)。動詞est(である)が省かれています。

主語はHomōかlupusか?あるいはどちらを主語にしても意味は通じるのか?

この観点でこの文を分析してみましょう。Homōを主語、lupusを補語とみなすと、「人間は(Homō)人間にとって(hominō)狼(lupus)(である)」となります。

逆に、Homōを補語、lupusを主語とみなすと、「狼は(lupus)人間にとって(hominī)人間(Homō)(である)」となります。

二つの文を読み比べると「人間は」で始まる文が正しく、「狼は」で始まる文は意味不明であることが明らかです。文法的にはどちらを主語にしても正しいラテン語ですが、内容を解釈すると、Homōを主語とみなすのが正解となります。

Mors sine mūsīs vīta.はどう訳すか?

Mors sine mūsīs vīta.
(mors,-tis f. 死 sine <奪格>なしに mūsa,-ae f. 音楽 vīta,-ae f. 人生)

この文をどう訳せばよいかですが、ポイントはsine mūsīsの訳し方です。「音楽のない」というフレーズをmorsにかけるかvītaにかけるか?文法的にはどちらにかけてもかまいません(これが語順が自由だといわれるゆえん)。

morsにかけて訳すと「音楽のない死は人生だ」となり、vītaにかけると「音楽のない人生は死だ」です。

当然後者がよいと誰もが思います。でも、その根拠は?というと、それは文法ではなく、自分の判断によるものです。後者が正解というのは、こちらのほうが日本語として意味が通るからという以上の理由はありません。

一つの文について、二つ以上の訳し方が可能なケースはいくらでもあります。その都度、前後関係に照らしながら、どの訳し方が妥当なのか、自分の中でディベートすることが多々あります。

ラテン語読解の面白さ(=難しさ)は、文法に即した正確な分析に加え、否それ以上に、読み手のそうした「判断」の正しさが常に問われる点にあると言えます。

そして、この鍵を握る読み手の「判断」とは、ラテン語以外の部分、すなわち、日本語その他の言語の読解によって会得できるものなのだと申し添えたいと思います。

なお、上の引用文の訳語ですが、mūsaは芸術や学問でもかまいません。すなわち、「芸術のない人生は死だ」も「学問のない人生は死だ」もOKです。一文だけでは一つの訳語に絞れません。

じつは上の訳以外の可能性はまだあります。

上のラテン語を英語に直すと、Life without music is death.であり、英語と異なりラテン語は Death without music is life.も可能だということが上の説明の要旨です。しかし、ラテン語はこの英文のようにwithout musicをLifeにかける以外、「音楽がなければ」と副詞節のように訳すことも可能であり、この可能性も視野にいれておきたいです。

この場合、「音楽がなければ人生は死だ」となります。無理に英訳すると、Without music, life would be death.でしょうか。

単純に見える一文でもこのように日本語訳は複数ありえます。

Carpent tua pōma nepōtēs.はどう訳すか?

Carpent tua pōma nepōtēs.
(carpō,-ere 摘む tuus,-a,-um あなたの pōmum,-ī n. 果実 nepōs,-ōtis c.孫)

いわゆる「正解」はリンク先をご覧いただくとして、この文も最低2通りの訳が可能です。

まず動詞に着目すると carpentは carpō の未来形で他動詞です。主語は何か、目的語は何か?と考えます。

pōmaとnepōtēs はそれぞれ名詞の複数形です。そして重要なことは、どちらも主格とも対格ともとれる点です。

ラテン語の初歩をかじった人にはおわかりいただけますが、pōmumのような中性名詞は主格と対格が同じ形になりますし、nepōs のような第3変化名詞は複数の主格と対格は同じ形です。nepōs の性はc.となっていますが、これは男性名詞としても女性名詞としても使われるという意味です。この文では男性名詞とみてよいでしょう。第3変化の男性(女性)名詞の複数主格と対格は-ēsで終わります。

pōma は主格か対格か、この単語だけいくら見つめても答えは出ません。同様にnepōtēs もしかりです。

一方を主語にすれば他方を目的語にする必要があります。

1)あなたの果実は孫たちを摘み取るでしょう。
2)孫たちはあなたの果実を摘み取るでしょう。

2つの可能性があるわけで、文法的にはどちらも正しいです。日本語として読み比べると2)が正しいことは一目瞭然です。もっともホラーな文脈であれば1)が正しいこともありえます。

かりに辞書で単語の意味を調べ、文法的に正確に分析ができたとしても、今見てきたように、ラテン語は幾通りにも訳せるということで、ここに面白さを見出すか、手に負えないと思って投げ出してしまうか。

ラテン語のネイティブがいて、彼らと流ちょうな会話をしなくてはならないなら、瞬時に正解を口に出し、耳で聞いて理解する必要がありますが、実際にはラテン語を母語とする人は誰もいません。

我々は「書き言葉」の解読にいそしむことが求められています。

であれば、時間を味方につけ、英文法で培ったセンテンスの徹底的な分析力をフルに発揮し、さらには日本語の常識を総動員して、2000年前のローマ人との「文字を通じた心の対話」を楽しもうではありませんか。

Abstulit clārum cita mors Achillem.をどう訳すか。

ホラーティウスの詩に見られる表現です。英語風の語順に並べ直すと、Cita mors abstulit clārum Achillem.です。主語はmors、動詞はabstulit、目的語はAchillemです。「早い死が輝かしいアキレウスを奪った」と訳せます。

続きがあります。

longa Tīthōnum minuit senectūs.

これも英語風に並べると、longa senectūs minuit Tīthōnum.です。訳は「長い老年がティートーヌスを憔悴させた」となります。

この二行はいずれもSVOの構文ですが、語順が英語と大きく相違していることがわかります。ラテン語ではこのような語順(主語が行末に来たり、修飾語と被修飾語が離れ離れになるなど)は日常茶飯事です。

Q. ラテン語の語順の自由さについて

読者からメールで質問を頂戴しました。やりとりを掲載します。

Q. 突然のメールで恐縮ですが、私がラテン語学習で感じた感想を述べさせてください。ラテン語学習で私が特に(接続法の次に)面食らったのが、語順の自由さです。

古代ローマの人たちは、この語順をはたしてどのように受け止めていたのでしょうか。

例えば、こういう一節があります。

Parva necat morsū spatiōsum vīpera taurum.
順通りの訳は「小さいのが、殺す、一咬みで、大きいのを、蛇が、牛を。」となります。

私はロシア語を長年学習していたこともあり、格変化などについてはほぼ理解できていますが、それにしてもこの語順は、人間の自然な言語としてはおよそ信じられないほどに出鱈目です。

これはどう理解すればよいのでしょうか。そして古代ローマ人はこれを耳で聞いてすぐ意味が分かったのでしょうか。

私が考えた仮説です。

仮説(1)順を追って理解していた。
上の例だと、まず「小さいのが殺すんだ、咬んだだけで、大きいのを」ということをとりあえず抽象論として押さえ、さらに「(具体的には)蛇が牛を」と後から聞いて納得する。実際、上の「順通り訳」を日本語として読むと、このような頭の使い方になると思います。

仮説(2)古代ローマ人にもわかりにくい文だった。
・悪文とまではいかなくとも、かなりわかりにくい文で、当時の人であっても聞き返していたのかもしれません。

仮説(3)詩の一節
この文も何らかの詩形式を守っており、母音の長短を意識した韻文であるのかもしれません。ロシア詩については大学で学びましたが、ラテン語についてはあまり知識がないため確認できません。

ラテン語の語順の自由さについて、先生のお手すきの際にでもぜひご意見を伺いたく思います。

A. お示しいただいたラテン文ですが、「でたらめな語順」というご指摘はまさにその通りです。

答えとしては、仮説の(3)が正解ですが、(1)も(2)も外れではないと思います。

Par-va ne | cat mor | sū spati | ōsum | vīpera | taurum と6つのメトロン(韻律)に分けることができます。
長・短・短 | 長・長 | 長・短・短|長・長| 長・短・短|長・長

ラテン語の韻律については、次のリンク先の解説が詳しくわかりやすいです。

ラテン文学の韻律(1) http://www.vdgatta.com/note_meter1.html

上のラテン文は、「ダクテュリクス・ヘクサメテル」の例です。

最初のPar- のaが「長い」のは「位置によって長い」ためです。

語順の件ですが、(1)、(2)も外れではない、という点について補足します。

今回のラテン文については、「韻律のせい」(ラテン語で metrī
causāといいます)だと説明できるのですが、散文でも「でたらめな語順」は頻出します。キケローを読むと、散文でありながら語順がこちらの期待を裏切ることがよくあります。何らかの強調を加える場合など、書き手の何らかの意図を反映しているので、それが何かをいつも考えさせられます。

別の角度から上の例文について見てみます。形容詞と名詞の関係にご注目ください。

A`: まむしの形容詞 / B`: 牛の形容詞  / A: まむし / B: 牛

A’ B’ A B とならんでいます。

視覚的にどんな印象を受けるでしょうか。まむしの体が牛の体とからみあっているかのようです。(こういうことを申し上げると、たいていにわかに信じていただけないことが多いのですが)。

ラテン語の詩は語順の自由度が高いことを利用し、このような視覚的効果を狙うことがしばしばあります。詩は耳で聞くだけでなく、目で読むこともありました。

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この記事を書いた人

ラテン語愛好家。京都大学助手、京都工芸繊維大学助教授を経て、現在学校法人北白川学園理事長。北白川幼稚園園長。私塾「山の学校」代表。FF8その他ラテン語の訳詩、西洋古典文学の翻訳。キケロー「神々の本性について」、プラウトゥス「カシナ」、テレンティウス「兄弟」、ネポス「英雄伝」等。単著に「ローマ人の名言88」(牧野出版)、「しっかり学ぶ初級ラテン語」、「ラテン語を読む─キケロー「スキーピオーの夢」」(ベレ出版)、「お山の幼稚園で育つ」(世界思想社)。

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