「ホモー・スム。フーマーニー・ニール・アー・メー・アリエーヌム・プトー」と読みます。
homō は「人間」を意味する第3変化名詞homō,hominis c.の単数・主格です。c.はcommon genderの略語で男性名詞としても、女性名詞としても用いられることを意味します。
sum は「~である」を意味する不規則動詞sum,esseの直説法・現在、1人称単数です。
sum 単独で、主語が「私は」であることを示しています。
ちなみに、sumはsum,es,est,sumus,estis,suntと活用します。
Homō sum. だけで「私は人間である」という意味になります。つまり、homō は主語ではなく補語になります(意外に盲点)。
hūmānī は「人間的な」を意味する第1・第2変化形容詞 hūmānus,-a,-um の中性・単数・属格です(「部分の属格」)。形容詞の名詞的用法です。「人間的なもの」を意味します。「人間的なもののうち」となり、nīl (いかなるものも~ない)にかかります。
nīl は nihil のことで、英語の nothing(無)に相当する不変化名詞です(変化しない)。これが主格か対格かは判断に迷うところですが、aliēnum の次にsumの不定法・現在 esse (~であること)を補うことで、いわゆる「対格不定法」(不定法の意味上の主語は対格で表すこと)の主語(=対格)。とみなします。
aliēnumは、nīl(中性・単数・対格)と性・数・格が一致しています。「他の」、「無縁の」という意味です。「~と無縁な」という場合、前置詞の ā(英語の from に相当)と奪格を伴います。ここでは ā mē となることで、「私から」となります(すなわち、「私から無縁の」という意味です)。
putō は「私は考える」という意味です。putō はputō,-āre(考える)の直説法・能動態・現在、1人称単数。つまり主語は「私は」です。
何をどう考えるのかと言えば、「私は、人間的なもののうち、いかなるものも自分から(=自分と)無縁であるとは考えない」という意味になります。
全体をまとめると、「私は人間である。人間に関わることで自分に無縁なものは何もないと思う」という意味です。
ローマの喜劇作家テレンティウス『自虐者』77に見られる表現です。ヨーロッパの歴史において、じつに多くの人たちがこの表現を座右の銘だと公言してきました。 「ホモー・スム」とだけ口にすれば欧米のラテン語を知っている人には通じます。
キケローも『法律について』(1.33)、『義務について』(1.30)の中でこの言葉を引用しています。
P.S.
この言葉にヒントを得て、「山びこ通信」に「私は人間である」と題するエッセイを書きました。
ローマ喜劇集〈5〉 (西洋古典叢書)
テレンティウス 木村 健治
コメント
コメント一覧 (1件)
[…] A. 主格が文頭にあると「主語」と思い込む人が多いと思いますが、そうとはかぎりません。ラテン語は主語を省くことがよくあります。人称代名詞の場合、動詞の形を見れば主語が何かはわかるので、省略されることがとくに多いです。その場合、補語と動詞だけで構成される文の訳にてこずることがあります。例えば、Homō sum.という一文。sumは「私は~である」を意味します。homōは「人間」を意味します。「人間は・・・」と訳し始めてはいけないということです。正解は、「私は人間である」となります。 […]