Q.文頭の主格は主語とみてもよいのでしょうか?
A. 主格が文頭にあると「主語」と思い込む人が多いと思いますが、そうとはかぎりません。ラテン語は主語を省くことがよくあります。人称代名詞の場合、動詞の形を見れば主語が何かはわかるので、省略されることがとくに多いです。その場合、補語と動詞だけで構成される文の訳にてこずることがあります。例えば、Homō sum.という一文。sumは「私は~である」を意味します。homōは「人間」を意味します。「人間は・・・」と訳し始めてはいけないということです。正解は、「私は人間である」となります。
Deus erat verbum.という『新約聖書』の言葉があります。文頭のDeusは補語で、主語はverbumです。
Dux vītae ratiō.の訳を考えてみましょう。Dux(導き手)とratiō(理性)はともに主格です。どちらが主語でしょうか。vītaeはvīta(人生)の単数・属格です。Duxにかけるか、ratiōにかけるか、どちらがよいでしょうか。文法的には何通りかの訳し方が正解となりますが、日本語としてしっくりくるのはどれか、ということで答えを決めます。①「導き手は人生の理性」、②「人生の導き手は理性」、③「理性は人生の導き手」、④「人生の理性は導き手」。答えは②と③です。
Lupus est homō hominī.はどうでしょうか。Lupusは「オオカミ」です。行末のhominīは「人間にとって」を意味します(homōの単数・与格)。ふつうはLupusを主語と思います。そうすると、「オオカミは(Lupus)人間にとって(hominī)人間(homō)である(est)」という訳になります。一方、homōを主語とみた場合、「人間は(homō)人間にとって(hominī)オオカミ(Lupus)である(est)。」と訳せます。どちらがよいでしょうか。正解は後者です。そのほうが日本語として意味が通るからです。文法的にはどちらも正解です。
Tū fuī, ego eris.という墓碑銘の言葉があります。文頭のTūは2人称単数の人称代名詞、主格です。しかし主語ではありません。動詞fuīはsum(である)の直説法・完了、1人称単数です。だとすれば主語はegoということになります。訳はどうなるでしょうか。「私はあなただった」です。つまり文頭のTūは文の補語です。同様に後半のego erisのegoも文の補語で、主語はeris(sumの直説法・未来、2人称単数)の形から「あなたは」と考えます。訳は、「あなたは私になるでしょう」。墓碑銘の言葉ということに注意すると、「私」は墓の中にいる死者、「あなた」は墓を見ている人、となります。
次の例はどうでしょうか。
Bōs quoque formōsa est.
Bōsは「牛」を意味する第3変化名詞、単数・主格です。quoqueは「~もまた」。formōsaは「美しい」。「牛もまた美しい」としてもよいのですが・・・。いぶかしい方はリンク先で正解を互角にください。
最後に「口直し」ということで、シンプルな構文の例をご紹介します。このように文頭の主格が主語の例も少なくありません。
Philosophia bonum consilium est.(哲学はよき助言である)
これはセネカの言葉です。主語はPhilosophia(哲学)、動詞はest、consilium(助言)は補語です。