髭は哲学者をつくらない

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一見ユーモラスな表現ですが、いわんとすることは鋭いです。見かけ倒しを戒める警句です。「わたしは髭とマントを見るが哲学者は目にしない」(Videō barbam et pallium, philosophum nōn videō.)というゲッリウスの表現や、「頭巾は僧を作らず」(Cucullus non facit monachum. )といった格言も同じ趣旨のことを述べています。

たしかに哲学者や僧侶の身なりを整えても中身が整わないと滑稽です。しかし、ホラーティウスの詩にこんな言い方がありますのでご用心。Quid rides? mutato nomine de te fabula narratur.(君はどうして笑うんだい。だって、名前を変えたらその話は君のことを言っているからだよ)。

さて、表題の解釈を一歩進めて、「うわべを取り繕っても本質はごまかせない」とか「本質より枝葉末節を重視する」という意味で広く理解するなら、「羊頭狗肉」や「本末転倒」といった四字熟語を連想します。さらに言えば、後者は、Certa āmittimus dum incerta petimus.(われわれは不確実なものを求める間、確実なものを失う)というプラウトゥスの言葉の意訳としてぴったりです。

ここで再び「哲学者のまねをする」モチーフに話を戻すと、ローマの雄弁家クィンティリアヌスは次のように喝破します。

「哲学者のふりをすることはできるが、雄弁家のふりをすることはできない。」(philosophia enim simulārī potest, ēloquentia nōn potest.)(柳沼重剛訳)

お見事と言うほかない表現です。雄弁家の面目躍如といったところです。

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この記事を書いた人

ラテン語愛好家。京都大学助手、京都工芸繊維大学助教授を経て、現在学校法人北白川学園理事長。北白川幼稚園園長。私塾「山の学校」代表。FF8その他ラテン語の訳詩、西洋古典文学の翻訳。キケロー「神々の本性について」、プラウトゥス「カシナ」、テレンティウス「兄弟」、ネポス「英雄伝」等。単著に「ローマ人の名言88」(牧野出版)、「しっかり学ぶ初級ラテン語」、「ラテン語を読む─キケロー「スキーピオーの夢」」(ベレ出版)、「お山の幼稚園で育つ」(世界思想社)。

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