語彙と文法
「イマーゴー・アニミー・セルモー・エスト」と読みます。
Imāgō は英語の image の語源で「姿、似姿」を意味します。第3変化名詞 imāgō,-ginis f.の単数・主格です。
animī は「心、精神」を意味する第2変化名詞 animus,-ī m. の単数・属格です。
imāgō か sermō かどちらにかけると意味が通りやすいかは、文脈次第です。
sermō は「言葉」を意味する第3変化名詞 sermō,-ōnis m.の単数・主格です。
一見簡単に見えますが、主語を imāgō か sermō かどちらと判断するのか、また、animī をどこにかけるのか、といった点で迷いやすいです。sermō が主語、animī は imāgō にかける、というのが基本的な解釈です。
「言葉は心の似姿である。」と訳せます。
言葉を聞くと、その人の心のようすが窺えるという趣旨でしょう。
プブリリウス・シュルスの言葉です。
余談
ローマの哲人セネカも、「人間は、生き方と同じように話す」という表現を残していますが、いわんとすることは同じです。
心を豊かにすると言葉も豊かになります。その逆に、言葉を磨くと心も磨かれます。それぞれの国に伝統的な言葉の教育があるのはその効果を信じる為です。我が国の漢文の素読も言葉と心を磨く修行でした。
ローマ随一の弁論の達人と言えばキケローですが、「著述ほど弁論に役立つものはない」と述べました。よく書ける人がよく話せる人になれる、とキケローは言うわけです。
弁論というと大げさに思いますが、たとえば結婚式のスピーチもその一つ。キケローであれば入念に下書きを用意せよ、と言うでしょう。下書きを準備する段階で話の起承転結が用意され、ふさわしい言葉が整えられていきます。
では、どうすればうまく書けるのでしょう。ローマの詩人ホラーティウスは、「賢明であること。それが正しく書くことの基礎であり、源泉である」と言いました。文章修行の極意とは、結局「人」としての自分をいかに磨くか、ということに尽きるでしょう。
このことをラテン語では、「文は人なり」という格言(Stilus virum arguit.)が端的に言い表しています。
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