語彙と文法
「オムニア・ウィンキト・アモル」と読みます。
Omnia は「すべて」を意味する第3変化形容詞 omnis,-e の中性・複数・対格です。vincitの目的語です。
vincitは第3変化動詞 vinco,-ere(打ち勝つ)の直説法・能動態・現在、3人称単数で、主語は Amor です。
Amor は第3変化名詞Amor,-ōris m.(愛の神)の単数・主格です。小文字の場合「愛」ですが、大文字で表記されると「愛の神」を意味します。
「愛の神はすべてに打ち勝つ」と訳せます。
ウェルギリウスの『牧歌』に見られる言葉です(Ecl.10.69)。
「愛があればあらゆる困難に打ち勝てる」という意味ではなく、愛の神はすべて(理性的な人間も何もかも)を打ち負かすことができる、という意味です。
表題の続き
表題の続きはこうです。et nōs cēdāmus Amōrī.(エト・ノース・ケーダームス・アモーリー)
etは「~もまた」。
nōsは1人称複数の人称代名詞、主格です。
cēdāmusはcēdō,-ere(<与格>に譲歩する、屈服する)の接続法・能動態・現在、1人称複数です。
AmōrīはAmor,-ōris m.(愛の神)の単数・与格です。
逐語訳は、「我々(nōs)もまた(et)愛の神に(Amōrī)屈しよう(cēdāmus)」となります。
ウェルギリウスの『牧歌』第10歌について
では、この愛の神(Amor)がすべてを征服するとはどういう意味でしょうか。元の詩を見てみましょう。
以下は、愛する女性リュコーリスを失ったガッルスの嘆きの言葉です(『牧歌』10.62-69)。
しかし、森の精たちも、詩も、もはやおれを
楽しませはしない。森よ、やはり去ってくれ。
おれがどんなに苦しんでも、恋の神は動かせない。
たとえおれが冬のさなかに、ヘブルス川の水を飲み、
みぞれ降る冬のトラキアに身をさらそうとも、
たとえ高い楡の木が、芯まで乾いて枯れる時期に、
蟹座には行った太陽の下で、エチオピア人の羊を一心に追おうとも。
愛はすべてを征服する。だからおれも、屈しよう。
(河津千代訳『牧歌・農耕詩』(未来社、1981)
これを読むと、Omnia vincit Amor. とは、ガッルスのような理性的な人間も愛の力に抵抗することはできないという意味で使われていることがわかります。この背景を知らず、訳だけを切り取って考えるとき、「愛があればすべてを克服できる」というポジティブな意味で理解するのが自然でしょう。じっさいインターネットで検索すると、そのような解釈が数多く見られます(日本に限らず)。
ではここで世間一般に流布しているこの解釈を「誤り」とみなすべきでしょうか。私は「否」と考えます。教室でウェルギリウスを読む場合に「誤り」と指摘されるだけのことです。「人は自分が信じたいことを喜んで信じる」(Libenter homines id quod volunt credunt. )というカエサルの言葉通り、この表現はやがて出典の意味を離れ、「愛があれば何一つ困難はない」という意味で理解されるようになりました。(→キケローのNihil difficile amanti. (恋する者には難事なし)と同じ趣旨です。)
ところで、文法的に無理がない限り、ラテン語の表現はしばしば多様な解釈を許します。amor ひとつをとっても、複数の訳が可能です。これを男女の愛に限定して理解する必要はありません。たとえばカール・ヒルティは amor を「神の愛」と考え、次のように述べています。
愛をもってすれば、あらゆるものにうち勝つことができる。(*)
愛がなければ、一生の間、自己とも他人とも戦いの状態にあり、その結果は疲れてしまい、ついにはこの世を嫌うようになるか人間嫌いにさえ行きつくほかはない。
しかし、愛はつねに最初は困難な決意であり、つぎには神のみ手に導かれてそれを行いうるまで長い間たえず学ぶべきものであって、愛は決してわれわれにとって自然に、生まれながらに備わっているものではない。
人が、愛を持ったときには、他のいかなるものにもまして、より多くの力ばかりか、より多くの知恵と忍耐力をも与えられる。
なぜなら、愛は永遠の実在と生命の一部分であって、これは、すべての地上のものとちがって、老化することがないからである。(「眠られぬ夜のために」下巻 一月九日の項)
(*)ヒルティのドイツ語原文では、Mit Liebe ist alles zu uberwinden.
引用箇所を読むと、ヒルティにとって「愛はすべてに勝つ」という言葉は、彼の思想の根幹にかかわる大切なものであったことがうかがえます。事実、彼の墓碑銘にはラテン語で、AMOR OMNIA VINCIT. と刻まれています(ラテン語の場合、語順を変更しても意味は大きく変わりません)。ラテン語の表現は、自由な解釈を許す余地がおおいにあります。私たちもヒルティに倣って、表題の言葉を自分流に理解してみてはいかがでしょうか。それが格言やことわざに対する自然なアプローチのはずです。
たとえば辞典で amor を引いてみると、「愛」のほかに「情熱」という訳語が見つかります。とすれば、「情熱がすべてに打ち勝つ」と訳してもよいはずです。これを意訳すると、「情熱があれば夢はかなう」となりませんか。「愛」を「恋」と変えるだけでも言葉の風景はがらっと変わります。みなさんも、自分の人生に照らし、自由に訳を試みてはいかがでしょうか。
(メモ:詩人は、この表現を想起させるかのように次作でLabor omnia vīcit / improbusと述べている)。
この一行の韻律について
ダクテュルス・ヘクサメテルです。ウェルギリウスは、『牧歌』、『農耕詩』、『アエネーイス』の三作すべてにこの韻律を用いました。
Omnia | vincit A | mor; et | nōs cē | dāmus A | mōrī.
長・短・短 | 長・短・短 | 長・長 | 長・長 | 長・短・短 | 長・長
D: ダクテュルス(長・短・短)
S: スポンデウス(長・長)
ここでウェルギリウスの韻律を考察した独創的な一冊をご紹介します。
『21世紀に沁みる 古代ローマ詩人の声:韻律なくして真実なし・ウェルギリウス アエネーイス 第一巻の「内容と韻律形式の一致』(三浦恒正著、学術研究出版、2023)です。
この著書をひもときつつ、Omnia vincit.. の一行を私なりに考察してみます。なかば雑談です。
単語本来のもつアクセント位置と脚の最初の長音節に置かれるアクセントの一致・不一致を見ると、第3脚以外一致しています。「一致」優位の一行といえます。
この第3脚に注意すると、-morの母音は本来短いのですが「長」と数える必要があります。三浦氏は、etとの間に「短母音分の休止時間を含めて次母音「e(t)」が始まるまでの時間の長さゆえに長音節と認識される」(前掲書、p.31)と指摘しておられます。
「一致」優位の一行においては、「不一致」の部分にいっそう注目が集まります。つまり、第3脚のAmorに焦点が当たって見えます。また、Amorの後一呼吸おいてnōs以下が始まることからも、この一語に最大限の意識の集中が行われるように、読者は( 聞き手は)いざなわれます。
なお、この行のダクテュルス(D)とスポンデウス(S)の組み合わせは、DDSSDSとなります。これは『アエネーイス』第1巻1行目と同じです。だからどうなる?という点については、『韻律なくして真理なし』を読んで研究したいと思います。同書によると、この型の『アエネーイス』第1巻における出現率は6
コメント
コメント一覧 (2件)
驚きました。
掲載されている写真の文字を実際に見て、検索してここにたどり着きました。
すごい偶然というか…意味もなく感激してしまいました。
自分はそもそもラテン語どころか外国語自体苦手なのですが、是非他のページも拝見させていただきます。
取り急ぎ、お礼と報告まで。
山下です。
コメントをありがとうございました。
私も初めて壁にあの文字が刻まれているのを見て感激したことを思い出します。
昔外国のジャーナリスト(自称)からメールを受け取り、「あのヒストリカル・モニュメントはなにだ?」と問われて事がありました。ラテン語の文字をみて、まさかシーザーが日本まで来たとでも(笑)?立場を変えて考えるとさぞ驚かれたことでしょう。