Sī vīs amārī, amā. 愛されたいなら、愛しなさい
セネカの言葉です(「倫理書簡集」9.6。文法の説明はこちら)。Sī (もしも)をとった形、Vīs amārī? Amā. でも知られます。この場合、「愛されたいか。では愛せ」となります。
amārī は不定法で「愛されること」、amā は命令法で「愛せ」を意味します。前者が受動で後者が能動の形です。
表現上、amārī と amā が比較されていることは一目瞭然ですが、この対比は、人生対する態度の相違を反映します。つまり、受身でなくもっと能動的になれ、という メッセージが示されています。
同じ趣旨のメッセージは次のラテン語表現にも 見られます。Verum cur non audimus? Quia non dicimus.(なぜ私たちは真実を聞かないのか。言わないから)。
こ の文では二つの動詞 audīmus (聞く)と dīcimus(言う)が対比されています。 それぞれ主語は「私たちは」で共通します。二つめの文には、目的語として vērum (真実を)を補います。言わんとすることは明瞭で、「本当のことを私たちが耳にしないのは、自分も本当のことを語らないからだ」ということです。
つまり、他人による真実の情報提供を期待する以前に、そもそも自分がそうしているだろうか?という内省を促す表現です。
ここで漢文に目を向けますと、孔子に、「人の己れを知らざるを患えず。人を知らざるを患う。」という言葉があります。内容的には異なりますが、表現のもとにある発想自体は今紹介した二つのラテン語表現と似ています。
セネカ哲学全集〈5〉倫理書簡集 I
兼利 琢也
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