愛はすべてに勝つ:ウェルギリウス『牧歌』

Omnia vincit Amor. 愛はすべてに勝つ

Omnia vincit Amor. これは、ウェルギリウスの詩に出てくる言葉です。原文では Amor が大文字で書かれています。その英訳は Love conquers all. となり、日本語訳は「愛はすべてに勝つ」となります。これらの訳だけを見ると、「愛があればどのような困難も乗り越えられる」という解釈をする人が多いのではないでしょうか。しかし、原文はまるで異なる意味を持ちます。

じつは、大文字で記された Amor は愛の神(または恋の神)のことです。日本でもキューピッド(Cupid)という名でおなじみの神です(ラテン語のつづりは Cupido でクピードーと読みます)。愛の女神ウェヌス(英語読みでビーナス)の息子で、「恋のキューピッド」のことだと言えばおわかりいただけるでしょう。では、この愛の神がすべてを征服するとはどういう意味でしょうか。元の詩を見てみましょう。

以下は、愛する女性リュコーリスを失ったガッルスの嘆きの言葉です(『牧歌』10.62-69)。

しかし、森の精たちも、詩も、もはやおれを
楽しませはしない。森よ、やはり去ってくれ。
おれがどんなに苦しんでも、恋の神は動かせない。
たとえおれが冬のさなかに、ヘブルス川の水を飲み、
みぞれ降る冬のトラキアに身をさらそうとも、
たとえ高い楡の木が、芯まで乾いて枯れる時期に、
蟹座には行った太陽の下で、エチオピア人の羊を一心に追おうとも。
愛はすべてを征服する。だからおれも、屈しよう。
(河津千代訳『牧歌・農耕詩』(未来社、1981)

これを読むと、Omnia vincit Amor. とは、ガッルスのような理性的な人間も愛の力に抵抗することはできないという意味で使われていることがわかります。この背景を知らず、訳だけを切り取って考えるとき、「愛があればすべてを克服できる」というポジティブな意味で理解するのが自然でしょう。じっさいインターネットで検索すると、そのような解釈が数多く見られます(日本に限らず)。

ではここで世間一般に流布しているこの解釈を「誤り」とみなすべきでしょうか。私は「否」と考えます。教室でウェルギリウスを読む場合に「誤り」と指摘されるだけのことです。「人は自分が信じたいことを喜んで信じる」(Libenter homines id quod volunt credunt. )というカエサルの言葉通り、この表現はやがて出典の意味を離れ、「愛があれば何一つ困難はない」という意味で理解されるようになりました。(→キケローのNihil difficile amanti. (恋する者には難事なし)と同じ趣旨です。)

ところで、文法的に無理がない限り、ラテン語の表現はしばしば多様な解釈を許します。amor ひとつをとっても、複数の訳が可能です。これを男女の愛に限定して理解する必要はありません。たとえばカール・ヒルティは amor を「神の愛」と考え、次のように述べています。

愛をもってすれば、あらゆるものにうち勝つことができる。(*)
愛がなければ、一生の間、自己とも他人とも戦いの状態にあり、その結果は疲れてしまい、ついにはこの世を嫌うようになるか人間嫌いにさえ行きつくほかはない。
しかし、愛はつねに最初は困難な決意であり、つぎには神のみ手に導かれてそれを行いうるまで長い間たえず学ぶべきものであって、愛は決してわれわれにとって自然に、生まれながらに備わっているものではない。
人が、愛を持ったときには、他のいかなるものにもまして、より多くの力ばかりか、より多くの知恵と忍耐力をも与えられる。
なぜなら、愛は永遠の実在と生命の一部分であって、これは、すべての地上のものとちがって、老化することがないからである。(「眠られぬ夜のために」下巻 一月九日の項)

(*)ヒルティのドイツ語原文では、Mit Liebe ist alles zu uberwinden.

引用箇所を読むと、ヒルティにとって「愛はすべてに勝つ」という言葉は、彼の思想の根幹にかかわる大切なものであったことがうかがえます。事実、彼の墓碑銘にはラテン語で、AMOR OMNIA VINCIT. と刻まれています(ラテン語の場合、語順の変更にさほど大きな意味はありません)。これを見て、「ウェルギリウスの表現だ」と指摘することは間違いではありませんが、的外れと言うべきでしょう。言葉の内容がヒルティ独自の思想を凝縮している点で、「ヒルティの言葉だ」と言うのが適切です。

ラテン語の表現は、自由な解釈を許す余地がおおいにあります。私たちもヒルティに倣って、表題の言葉を自分流に理解してみてはいかがでしょうか。それが格言やことわざに対する自然なアプローチのはずです。たとえば辞典で amor を引いてみると、「愛」のほかに「情熱」という訳語が見つかります。とすれば、「情熱がすべてに打ち勝つ」と訳してもよいはずです。これを意訳すると、「情熱があれば夢はかなう」となりませんか。「愛」を「恋」と変えるだけでも言葉の風景はがらっと変わります。みなさんも、自分の人生に照らし、自由に訳を試みてはいかがでしょうか。

※なお、ウェルギリウスは次作『農耕詩』において、Omnia vincit Amor.を「情熱(真摯な愛も含む)はすべてに打ち勝つ」と解釈してもよいことを示唆していると私は解釈しています(一種の本歌取り)。

眠られぬ夜のために〈第1部〉 (岩波文庫)
ヒルティ Carl Hilty
4003363817

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この記事を書いた人

ラテン語愛好家。京都大学助手、京都工芸繊維大学助教授を経て、現在学校法人北白川学園理事長。北白川幼稚園園長。私塾「山の学校」代表。FF8その他ラテン語の訳詩、西洋古典文学の翻訳。キケロー「神々の本性について」、プラウトゥス「カシナ」、テレンティウス「兄弟」、ネポス「英雄伝」等。単著に「ローマ人の名言88」(牧野出版)、「しっかり学ぶ初級ラテン語」、「ラテン語を読む─キケロー「スキーピオーの夢」」(ベレ出版)、「お山の幼稚園で育つ」(世界思想社)。

コメント

コメント一覧 (4件)

  •  ≪愛は永遠の実在と生命の一部分であって、これは、すべての地上のものとちがって、老化することがないからである。≫ 

     「博士の愛した数式」小川洋子著に[オイラーの等式]が出てくる。
     この式の[=]を取り去りたく『ジャーゴン(数の核)』にぶち込むと、また新たな『ジャーゴン(数の核)』が生まれる。

     ≪愛は永遠の実在と生命…≫を、
     「数学の大統一に挑む」エドワード・フレンケル著 青木薫訳の、
     ≪…「愛の数式」が存在すると思っているわけではない。…[愛]のチャージ(荷)を担うことはできるのだ。…≫ 
               に観立てると
      『ジャーゴン(数の核)』は、≪「愛の数式」≫ではないが、≪[愛]のチャージ(荷)≫には生っていると・・・

  •  ≪…≪[愛]のチャージ(荷)≫…≫は、
    [絵本]「もろはのつるぎ」で・・・

  • ≪…本歌取り…≫の百人一首の66と33で、数の言葉ヒフミヨ(1234)をカタチに・・・

     もろともにあわれと思へ ヒフミヨに 数より他に知る人もなし

     久方の光のどけき ながしかく しず心なく四角生るらむ 

     静なる『自然比矩形』 動なる『ヒフミヨ矩形』『ヒフミヨ渦巻』 に想う・・・

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