セストスへ来たならば、ヘーローが灯りをかかげた塔を探しておくれ
表題は、岩波ジュニア新書『ギリシア人ローマ人のことば―愛・希望・運命』(中務哲郎・大西英文、1986)から採りました。以下はこの言葉に関する解説です。この本は、西洋古典文学の魅力を優しい言葉で語った素晴らしい作品であり、私の愛読書であります。
ギリシア人ローマ人のことば―愛・希望・運命 (岩波ジュニア新書 107)
中務 哲郎 大西 英文
「ヨーロッパとアジアを分けるへレスポントス海峡(今のダーダネルス海峡)をはさんで、セストスとアビュドスの二つの町が向かいあっていますが、セストスにある古い塔には、五世紀の詩人ムーサィオスが伝えるような悲しい伝説が秘められているのです。この塔には、へ-ローという乙女が住んでいました。美と愛の女神アプロディテに仕える巫女で、女神の生れかわりといわれるほどの美少女でしたが、ひたすら神に仕え、娘たちの娯楽に加わることもありませんでした。しかし、アドニスの復活を祝う名高い祭礼の日に、 遠方から大勢の若者が娘たちの美しい笑顔を目あてに集まってくるなかに、アビュドスからレアンドロスがやって来て、へーローと視線を交わすなり、二人は同時にエロス(恋の神)の矢に射ぬかれてしまったのです。
陽が落ちるのを待ってヘーローに近づいた若者は、少女の美しさをたたえ、アプロディテに仕える者が恋知らぬままであってはいけない、と訴え、ついに愛をかちえます。そして、人目を忍んで逢うために、毎夜ヘレスポントス海峡を泳ぎ渡ってくることを誓います。塔の上からは、へーローが目印の灯りをかかげることを約束します。
五キロ以上もの暗い海の道、泳ぎ疲って疲れきった恋人の体をへーローが抱きとって、海の塩気をぬぐってやります。寄りそって体を温めるまもなく、はや朝の光を恐れて恋人を帰さなければならぬのが辛いとはいえ、二人の歓びは大きなものでした。
しかしやがて、舟乗りも舟を引き上げる嵐の冬がやって来ました。へーローはずいぶん迷いましたが、逢いたい一心にせかされて灯りをともします。それを見るや、レアンドロスもすさまじい音をたてる波間に跳びこんでいきます。しかし、海と空とが混じりあうような高波にもてあそばれ、そのうえ、塔の灯りも嵐に吹き消されて、目標を失ったレアンドロスはついに力尽きてしまうのです。海の黒い背をじっと見すえていたヘーローにも、白々と夜が明けてきました。そして、浜辺に打ち奇せられたレアンドロスの死体を認めるや、ヘーローは胸の衣を引き裂き、高い塔から身を躍らせて、死せる夫と一つになったのでした。」
このエピソードについては、ウェルギリウスも 『農耕詩』第3巻の中で言及しています。なお、ヘレスポントス海峡をレアンドロスが泳ぎ渡ったというのは作り話だという者に対し、詩人バイロンは自ら泳ぎ渡り、不可能でないことを実証したそうです。