語彙と文法
「クゥォド・シー・クーラム・フギムス・ウィルトゥース・フギエンダ・エスト」と読みます。
Quod sī は接続詞で「しかしもし」という意味です。
cūram は「不安、心労」を意味する第1変化名詞 cūra,-ae f. の単数・対格です。
fugimus は「逃げる」を意味する第4変化動詞 fugiō,-īre の直説法・現在・能動態、1人称・複数です。
virtūs は「美徳、勇気」を意味する第3変化名詞virtūs,-ūtis f.の単数・主格です。
fugienda はfugiō,-ere(避ける、遠ざける)の動形容詞で virtūs と性・数・格が一致します(女性・単数・主格)。
fugienda est で「virtūs は遠ざけられねばならない」(=virtūs から遠ざかるべきである)となります。
「しかしもし我々が心労から逃れるならば、美徳からも遠ざかるべきである」と訳せます。
キケローの『友情について』(De Amicitia)に見られる表現です(47節)。
前後関係
表題の言葉の前後関係を知っていただくため、岩波文庫の中務哲郎訳をご紹介します。
「人生から友情を取り去るのは、この世界から太陽を取り去るようなもの、友情以上の善きもの、喜ばしいものは不死なる神々から頂いてはいないのに。連中の言う無事平静とは何ほどのものか。一見、確かに魅力的だが、実際には多くの場合、拒否しなければならぬものだ。なぜなら、面倒を避けたいばかりに立派な仕事や行動を引き受けない、あるいは引き受けたのに放り出す、というのは不条理だからだ。もし心労から逃げようとすれば、徳からも逃げなければならぬ(Quod si curam fugimus, virtus fugienda est.)。(『友情について』47、中務哲郎訳)
補足
エピクーロス派は、cura から逃れて「心の平静」(securitas)を実現しようと考えましたが、amicitia に cura はつきものです。上の表現はキケローの『友情について』(De Amicitia)に見られます。エピクーロス哲学を批判する文脈で出てくる言葉です。なおローマでエピクーロス哲学といえば、『事物の本性について』を書いたルクレーティウスの名が思い出されます。
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