偉大という言葉

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Magna voluisse magnum. 偉大なことを志したことが偉大である。

英語に Deeds, not words. (言葉ではなく、行動)という表現があり、これはこれで好きな言葉なのですが、上にご紹介したラテン語も、理想を掲げることの大切さを忘れぬためにも心に刻みたい言葉です。

ヨーロッパの言葉、とくにラテン語を読んでいると magna (偉大な)とか大仰な表現によく出会います。日本の文化では、そんな極端な表現や物事を単純に割り切った考え方を嫌う傾向が感じられます。

百人一首に接すると感じられますが、女性への恋心を歌に詠む場合も、じつに遠回しな表現をします。このような文化の比較は昔からよく行われてきましたし、私の指摘はとくに目新しい分析でもありません。

ただし、ヨーロッパ古典、とくにローマ文学について少し補足すると、この magna と言われる言葉はけっして皇帝や権力者にふさわしいものというより、むしろ個人の志向する目標、いわゆる目線の高さとの関係で語られるケースがあるということで、したがって、名もない個人であっても、崇高な理想を掲げるなら、彼は magna voluisse (偉大なことを志向した)と評価されますし、その逆に、いかに立派な身分に生まれ育っても、また、その地位を獲得したとしても、目線が低ければ「小人」扱いされます。

目線の高い低い、の区別。これがポイントであり、その違いは何に基づくかと言えば、私利私欲からどれだけ遊離できるかという見方も出来るし、ラテン語を用いると res publica (公の事柄)に心を傾けることが magna voluisse である、それに対して res privata (私利私欲)にこだわるなら magna を voluisse したことにならない、よって magnum な生き方ではない、ということになります。

この事情を語った著作としてキケローの『国家について』は重要な作品です。一般人が天下、国家について語るというのは日本では一種のアレルギーを引き起こしますが、元のラテン語は「みんなのもの、みんなの問題」という平たい言葉です。日本の文化の洗練を私は誇りに思いますが、一方でどれだけこの res publica に populi (一般の人々)が関心を寄せ、力を尽くそうとするのか、つまり magna voluisse するのか、ここが気がかりです。

多くの場合、煎じ詰めれば res privata な問題をめぐって議論されているかに見えます。政治家を見ても magna を見据えているのかが気になります。

ちなみに、キケローはこの作品の中で、Res publica res populi.(国家とは国民のもの)と、国家の再定義を行っています。現代の民主主義のありかたを考察する上で、この言葉のもつ意味は小さくありません。

中国の古典では、君子という言葉がたくさん出てきます。対立語は小人。君子は器ならず、といわれます。今は器を手早くつくってしまおうという風潮が教育界を中心に見られます。大学もそんな感じです。

孔子は、「君子は器ならず。本立ちて道生ず」と言います。

孔子が基本が重要、と言うときの「基本」とは何か。場当たり的な処理能力が高くて評価される傾向がありますが、それは君子の評価ではないでしょう。君子は magna を心の中で見据えて志向すると言えないでしょうか。

キケロー選集〈8〉哲学I―国家について 法律について
キケロー 岡 道男
4000922580

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この記事を書いた人

ラテン語愛好家。京都大学助手、京都工芸繊維大学助教授を経て、現在学校法人北白川学園理事長。北白川幼稚園園長。私塾「山の学校」代表。FF8その他ラテン語の訳詩、西洋古典文学の翻訳。キケロー「神々の本性について」、プラウトゥス「カシナ」、テレンティウス「兄弟」、ネポス「英雄伝」等。単著に「ローマ人の名言88」(牧野出版)、「しっかり学ぶ初級ラテン語」、「ラテン語を読む─キケロー「スキーピオーの夢」」(ベレ出版)、「お山の幼稚園で育つ」(世界思想社)。

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