語彙と文法
「コーギトー・エルゴー・スム」と読みます。
cōgitōは「考える」を意味する第1変化動詞 cōgitō,-āreの直説法・能動態・現在、1人称単数です。
ergōは「それゆえ」を表す接続詞です。
sumは不規則動詞 sum,esse(ある、いる)の直説法・現在、1人称単数です。この文では「である」の意味でない点に注意します。
cōgitōは英語で”I think”、ergōは “therefore”、sumは”I am” となり、英語で全体を訳すと、”I think, therefore I am.” となります。
日本語の直訳は「私は考える。故に私は存在する。」となりますが、「我思う故に我あり」という訳で人口に膾炙(かいしゃ)しています。
フランスの哲学者デカルトの言葉として知られます。
少し調べると、彼自身がこのラテン語を残したわけではない、ということがわかりますが、彼の思想の根幹を端的に表す言葉とみなすことはできるでしょう。
コギト・エルゴ・スムとヘレンケラー
Cogito ergo sum.の英訳は、I think therefore I am. です。ヘレン・ケラーは、この言葉に出会ったとき、身体のハンディは自分の本質ではない、本質は自分の心にある、という信念を一生支える言葉に出会ったと述懐しています。この言葉のどこにそれだけの力があるのでしょうか。
全体を平易な日本語で訳すと、「私は考える(コーギトー)。それゆえ(エルゴー)私は生きている(スム)」となります。「それゆえ」の前にある言葉(「私は考える」)が、後にくる言葉(「私は生きている」)の理由になっている点に注意します。つまり、「なぜ私は生きているのだろうか?」と問うとき、その答えは、「考えるから」となります。
これは私の想像ですが、色も音もない世界に閉ざされたヘレン・ケラーは、「なぜ私は生きているか?」と何度も自問したことでしょう。彼女にとって、デカルトの言葉はその答えになっているように思われたでしょう。生きる理由は、コーギトー、つまり、物事を自分の頭で考えている限り保証されるというわけです。三重苦の彼女にとって、言葉を用いる活動を何より大切だとみなす考えは、大きな励ましを与えるものだったでしょう。
哲学の言葉としてではなく、ヘレン・ケラーがどう理解したのかを考察すると以上のようになると思います。
このことをふまえたエッセイを書きました。
>>My Life-Expression: 「われ思うゆえにわれあり」とヘレンケラー
sumの2つの意味
sum を辞書で引くと、「~である」という意味と、「ある、いる」という意味の二つが見つかります。たとえば、Homō sum.(私は人間である)の用例は前者の意味で使われ、Cōgitō ergō sum.(私は考える、ゆえに私は存在する)は後者の意味で用いられています。sumの3人称単数はest(エスト)です(ついでながら、sumの活用は、sum, es, est, sumus, estis, sunt)。Dum vīta est, spēs est.(命ある限り、希望がある)の用例も、後者の例だとわかります。
コメント
コメント一覧 (3件)
[…] Cōgitō,ergō sum.(我思う故に我あり)。 […]
[…] ジョークを解説するのは野暮なので、細かくは書きません。ネタばらしはこちらで […]
[…] Cōgitō ergo sum. 私は考える。ゆえに、私は存在する。 Dum spīrō, spērō.(私が)息をする間は、希望がある。 Aquila nōn captat muscam. 鷲(わし)は蠅(はえ)をつかまえない。 Bonī amant bonum. 善人は善を愛する。 Fāma volat. 噂が飛ぶ。 Varietās dēlectat. 多様性は喜ばせる。 […]