表題は有名なラテン語の言葉です。日本で最初の西洋古典学者田中秀央先生の座右の銘でした。ケーベル先生から授かった言葉と聞きます。あれもこれも言葉を学ぼうとしてあせっていた田中先生にケーベル先生いわく、「フェスティーナー・レンテー」だぞと。かなり意訳すると「あせるな、じっくりやれ」となるかもしれません。関西弁だと「ぼちぼちいこか」とでも。
日本で西洋古典を学ぶ人は必ずギリシア語、ラテン語をマスターしなければならず、文字通り寝食を忘れて努力しないといけないわけです。その結果、それなりの力がついても、本人としてはまだまだ何も身についていない、と思い、絶望にも近い気持ちが押し寄せるものです。田中先生もそうだったのでしょうか。
田中先生のご自宅は北白川にあり、なんと私の家と通りをひとつ隔てた場所にあります(といっても距離的には少しありますが)。私が生まれた頃、立派な勲章をもって幼稚園の園児たちに見せに来てくださったこともあったそうです(園長であった父から聞きました)。ちょっとこじつけになりますが、今、「北白川でギリシア語、ラテン語を教える私塾を開いている」ことに私はある種のご縁を感じます。
と書いてきて思い出したことがあります。それは、田中先生の作られた辞書に関する学生のレポートのことです(「『初版まへがき』を読んで厳粛な感動に心を打たれました。」という一文を含むもの)。学生と言っても、会社を退職して聴講生をされていた方で、いつも最前列に座って実に熱心に学ばれました。この方とは年賀状のやりとりを続けていましたが、ある年、奥様から訃報を知らされました。
研究社の「羅和辞典」としては旧版になりましたが、今でもこの本を手にするとそうしたことも含め、様々な思い出が去来します。
羅和辞典
田中 秀央
さて、Festina lente.という言葉に話を戻すと、この表現は言葉の意味を汲んで「急がば回れ」と訳されることもあります。
ローマの伝記作家スエトニウスは、アウグストゥスの座右の銘を三つ紹介していますが、その一つ目がこの言葉のギリシア語版。二つ目もギリシア語で、「大胆な指揮官より慎重な指揮官がまし」というもの。三つ目はラテン語で、「立派にできたことは十分早くできたこと」。
どれも向こう見ずを諌め慎重さを重んじる言葉ですが、三つ目のラテン語はちょっとひねってあってすぐに意味がつかめません。
たとえばビジネスの現場を考えてみると、できあがりが早くても仕事が雑であればやり直す必要があり、かえって時間がかかります。逆に、一見時間がかかっているように見えても丁寧に仕事を仕上げる人はやり直しの必要がありません。つまり、「十分に早い」ということになります。ということで、これも結局のところ日本語の「急がば回れ」と趣旨は同じです。
そう考えると、表題に掲げた「ゆっくり急げ」という格言も、力点はどうやら「ゆっくり」に置かれているようです。じっくりと丁寧に仕事に取り組むことが、大局的に見て時間を節約することにつながる、という意味で理解してよいのでしょう。
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