高校生の方からラテン語に関して次のようなメールをいただきました。
「ラテン語格言集」の117、118を読みました。scientia と science の発音のつながりはあるのですか。スペルからは語源というのは想像がつくのですが。」
少し大き目の英和辞典で science の語源を調べますと、ラテン語のscientia(スキエンティア)からできた語であることがわかります。そして scientia は、「知る」を意味するラテン語の scio(スキオー)からできた語です。 「発音のつながり」という点では、英語の「サイエンス」とラテン語の「スキエンティア」は大きく異なっているといわざるを得ません。つづりは似ているのにどうしてこうも発音が違うのでしょう。
サイエンスに限らず、英語の発音はつづり字どおりに発音しない例に事欠きません。それに対し、ラテン語はつづり字どおりに発音すればオーケーです。ラテン語というと仰々しいのですが、ローマ字読みすればよいというとピンとくるでしょう。
ローマ字読みとはまさにラテン語の読み方であるといってさしつかえないのです。日本では小学校でラテン語の読み方を学習し、中学に入ると英語の発音を習います。こと発音に関して言えば、日本人にとって一番なじみのある言語(ラテン語)から一番難解な言語(英語)へと移行するので、中学生はたいへんなカルチャーショックを受けると思います。
英語の代わりにラテン語を学ぶのならその点はオーケーなんですが、文法がたいへんだろうという声が聞こえてきそうです。ところが、日本の受験英語と比較すればどうでしょうか?私の目には、中学生、高校生が手にする英文法の教科書は、まるでラテン語の教科書のように見えます。それもそのはず。英文法を効率よく習得したいと考えた日本人は、イギリス人がラテン語文法を習得するためにつくった教科書を手本としたのです。
つまり、日本で英語を習うと、発音の難しさとまるでラテン語のように難しい文法体系の両面で大いに苦しめられるのではないでしょうか。
ここで日本人が漢文を読むために考案したレ点とか返り点とかのテクニックを使いながら、日本の新聞を読もうとするイギリス人を想像してください。イギリス人が古典語を読む理由は、日本人が漢文を読んできた理由と似ています。
たとえばテレンティウスの有名な「ホモー・スム(私は人間である)Homo sum.」という言葉を英訳すると I am a man. ですが、このように英語だと中学校で学ぶ初歩的な例文としか思えない言葉でも、西洋社会ではセネカ、アウグスティヌス、ゲーテ、マルクスをはじめ多くの人の心を捉えてきた歴史をもつのです。そして彼らはヨーロッパ文化の基礎をなすギリシア、ローマ文化の全体を古典語を学ぶことで現代に生かそうと努めてきました。まさに「温故知新」というわけです。
今紹介した「温故知新」という四字熟語もそうですが—これは『論語』の言葉です—、現代日本語には、漢文の古典的言葉が数多く残っています。我々の先祖は、その古典的価値を認め、その読解を目的として独特のノウハウを発達させました。それがレ点や返り点を施したテキストだったわけです。
しかし、我々は現代日本語を読み書きする上で、そのノウハウを適用する必要はありません。現代英語を学ぶ者は、ラテン語を読み解くノウハウを意識する必要がないのと同様です。しかし、日本人は英語の能力を習得する上で、「ラテン語文法」を範とした「英文法」を大切にしてきました。
昨今その否定的な影響(=会話ができない等)が指摘されますが、ことラテン語学習に関していえば、英文法の知識があればずいぶん助かることは事実です。
日本人にとって英語を読むノウハウはラテン語を学ぶ際に少なからず応用できる面があるということです。逆に英語を初めとする現代の欧米語をより深く広く学ぶ上で、ラテン語を学習するメリットは計り知れないと思います。