ラテン語を学ぶ人の多くはどこかで「フェスティーナー・レンテー」という言葉を耳にしたと思います。
文法的に説明すると、festīnā lentē. とは「急ぐ」を意味する動詞 festino の命令法 festina と「ゆっくりと」を意味する副詞 lente を並べたものです。
festina lente. は一般的に「ゆっくり急げ」と訳されますが、表題に挙げたように自由に意訳するのもおもしろいです。「ぼちぼちいこか」は関西弁になります。
非関西圏の人のために一応説明しておくと、「ぼちぼち」は lente の意味を持ちます。「いこか」は英語で訳すと let’s go!の意味なので、まあ festina と似たような意味と言えるでしょう(かなりアバウト)。
そんなわけで、ラテン語の学習も、この「ぼちぼちいこか」の心意気でのんびりやればよいと思います(専門家を目指す人は自分なりのやり方で猛勉強してください)。
山登りにもいろいろな楽しみ方があるように、ラテン語の山登りにもいろいろあっていいと思うのです。
ラテン語の学びが山登りなら、途中で引き返すのはもったいない話です。
ゆっくりでもマイペースで登ればよい、というより、ゆっくり登ることに積極的な意味がある、そんな登り方もあるはずです(歩けばこそ目にするものがあるように)。
山登りにおいては、ときに立ち止まって周囲の景色を眺めるように、余談や雑談もラテン語学習の大切なファクターだと思います。
たとえば、Homo sum. (私は人間である)という例文一つとっても、長々と語ることのできるネタがつまっています。それはちょっと調べれば誰にでもできることで、このことに気づくと、ラテン語を学ぶことへの興味が増していきます。
興味が増すごとに、ラテン語は死語ではないことを実感できると思います。もちろん、ラテン語は死語である、という言い方は正しいですが、ラテン語は死語ではない、という言い方も同じように正しいのです。
英語では「興味」を interest といいます。この綴りは inter + est と分解でき、「間に(inter)」「何かがある(est)」という意味のラテン語が起源です。ラテン語を学びながら「何か」ピンとくるものを「あなた」が感じたら、ラテン語は今も生きているということになるでしょう。なぜなら、生きている「あなた」と「ラテン語」との「間」に「何か」が「実在」するわけですから。
この「ピン」とくるものを手がかりとして(いわば山登りのガイドとして)、ラテン語の世界を自由に楽しんでください。
美術館を訪れる人がみな絵を描く人とは限りません。名画は眺めるだけでもよいのでしょう。音楽も同じです。ラテン語で書かれたものは2000年の時を超えて今に伝わります。翻訳を読むだけでもその素晴らしさは実感できるでしょう(小林秀雄もそう言っています)。
ただ、絵を自分でも描いたり、音楽を自分でも演奏できると、美術館や音楽会のひとときを一層楽しめるでしょう。同様に、ラテン語も、どんなに些細でも自分なりに勉強し原文を読むことができるなら、何も勉強しないよりも、楽しみが一気に広がります。
ただし、この「原文を読むこと」について、私は経験上、「最初に気合が入りすぎて挫折した人」を嫌というほど見てきました。ラテン語の場合、実利のためでなく楽しみのために学ぶ人がほとんどですから、頑張れ!と言わなくても頑張る人(最初からモーティベーションの高い人)が大半です。結果的に「ラテン語を極める」ことができたら最高ですが、最初から「極めるぞ」と肩に力を入れすぎた結果「続かない」のではもったいないです。
そういうわけで、私のささやかなアドバイスは、ラテン語に「関心を持つ」だけでも十分素晴らしい、と考えてみてはどうか、というものです。ラテン語で書かれた文章の多くは、英語をはじめ多くの言語に翻訳されています。これらの翻訳を読むことで作品の輪郭をつかみ、「どうしてもここは原文を読みたい!」と思う箇所に絞って訳文と原文を照合し、意味を吟味する、というのはどうでしょうか。
ラテン語は漢文と同じく、たとえ短い文章であっても含蓄があります。ワインはがぶ飲みすることに意味はなく、たとえ少量でも「じっくりと味わう」ことはできるでしょう。ラテン語を読む楽しさは、これと同じだと言えないでしょうか。
以上述べてきたように、私はラテン語を学ぶ多くの人に「ぼちぼちいこか」の気持ちでラテン語学習を続けていただきたいと心から願ってやみません。