Non scholae sed vitae discimus.

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「ノーン・スコラエ・セド・ウィータエ・ディスキムス」と読みます。
nōn A sed B の構文は「AでなくB」と訳します。英語のnot A but Bと同じです(英語表現がラテン語のそれを模倣)。
scholae は「学校」を意味する第1変化名詞schola,-ae f.の単数・与格です。「学校のために」を意味します。「利害関係の与格」です。
vītae は「人生」を意味する第1変化名詞vīta,-ae f. の単数・与格です。「人生のために」を意味します。
discimus は「学ぶ」を意味する第3変化動詞 discō,-ere の直説法・能動態・現在、1人称複数です。主語の「我々は」に相当する人称代名詞nōsは省略されています(ラテン語では普通のことです)。
「われわれは学校のため(scholae)でなく(Nōn)、人生のために(vītae)学ぶ(discimus)」という意味になります。
「人生」とは「自分の人生」のことでしょう。英語のourに相当するラテン語のnostrae(所有形容詞noster,-tra,-trumの女性・単数・与格)は省略されています。
セネカは『倫理書簡集』の中で、Nōn vītae sed scholae discimus. (われわれは人生のためでなく学派(学校)のために学んでいる)と批判的に述べています(Sen.Ep.106.12)。
表題の言葉はそれをもじった表現として人口に膾炙するようになりました。

<追記>
ラテン語の「スコラ」はセネカの原文では「学派」と訳すべきですが、現代は「学校」の意味で理解されています。字面を見ればお分かりのとおり、この単語は英語のスクール(学校)の語源です。

動詞の discimus (われわれは学ぶ)を省略しても立派に格言として通用します。世界を見渡すと、この動詞抜きの形で標語に掲げる学校がいくつもあります。言葉の意味は、教師や学校といった他人のためにではなく、何よりも自分の人生のために学ぶべきである、ということです。

原文でセネカは、善は物体かどうかという議論を取り上げ、このような議論は賢者でなく学者を作るだけだ、知恵を持つにはわずかの学問だけで足りる、と述べています。セネカが求めるのは過剰な学問ではなく、自分の精神を立派なものに磨き上げる上で意味のある学びでした。

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この記事を書いた人

ラテン語愛好家。京都大学助手、京都工芸繊維大学助教授を経て、現在学校法人北白川学園理事長。北白川幼稚園園長。私塾「山の学校」代表。FF8その他ラテン語の訳詩、西洋古典文学の翻訳。キケロー「神々の本性について」、プラウトゥス「カシナ」、テレンティウス「兄弟」、ネポス「英雄伝」等。単著に「ローマ人の名言88」(牧野出版)、「しっかり学ぶ初級ラテン語」、「ラテン語を読む─キケロー「スキーピオーの夢」」(ベレ出版)、「お山の幼稚園で育つ」(世界思想社)。

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