Supra patientiam.

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「スプラー・パティエンティアム」と読みます。
supra は「・・・を越えて」という意味の前置詞で、対格を取ります。
patientiam は「受難」を意味する第一変化名詞、単数対格です。
この二語の組み合わせだけだと、「受難を越えて」という意味の副詞句になります。
文意を組んで「受難を凌駕する」と訳せます。また、原文におけるセネカの主張を反映し、端的に「受難を凌駕せよ」と意訳することも可能です。
セネカ、『摂理について』に見られる表現です。元の文では、神と人間とで「受難」に対するアプローチが違うことが論じられていて、神の場合はそもそも「受難」を受けることがない、すなわち、「受難の外にいる」ということになるのに対し、人間は「受難」を被り、なおかつ勇気を持ってそれを乗り越えることができる、すなわち、「受難を凌駕する」ことができるし、ぜひそうすべきである、と。

以下補足です。

ちなみに、「凌駕する」という動詞として supero がありますので、「あなたに」「受難を凌駕せよ」というばあいは、Supera patientiam. 「あなたがた」にそう言う場合は、Superate patientiam. とします。(前者は表題と一文字違いでややこしいです。)

簡単に元の文脈をご紹介しますと、次の一文の後半が表題です。

ille extra patientiam malorum est, uos supra patientiam.

前半の ille は「神」を指しています。「神は受難の外に(extra)いる(est)。(それに対し)あなたがたは、受難を凌駕している」となります。

「受難を凌駕せよ」という意味合いを出す場合、Supra patientiam sis. または Supra patientiam sitis. とする手もあります。セネカの原文に補うべきは、sis, sitis でなくおそらく estis でしょうが、読者への励ましの力強さ、言葉の勢いを考慮すると、sitis を補って解釈すること(=「受難を凌駕せよ」と訳すこと)は可能だと思われます。

参考まで、岩波文庫訳にて前後の訳を紹介いたします。「逞しく耐えよ。ここでお前たちは、神をも凌ぎうる。彼は受難の外にある。お前たちは受難を凌駕するのだ。窮乏を軽蔑せよ。誰も生まれた時ほど貧しく生きはしない。苦痛を軽蔑せよ。それは解かれるか、解くかにすぎない。死を軽蔑せよ。お前たちを終わらせるか、移すかにすぎない。運命を軽蔑せよ。精神を撃てる武器は運命に何一つやらなかった。」(岩波文庫、兼利琢也訳)

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この記事を書いた人

ラテン語愛好家。京都大学助手、京都工芸繊維大学助教授を経て、現在学校法人北白川学園理事長。北白川幼稚園園長。私塾「山の学校」代表。FF8その他ラテン語の訳詩、西洋古典文学の翻訳。キケロー「神々の本性について」、プラウトゥス「カシナ」、テレンティウス「兄弟」、ネポス「英雄伝」等。単著に「ローマ人の名言88」(牧野出版)、「しっかり学ぶ初級ラテン語」、「ラテン語を読む─キケロー「スキーピオーの夢」」(ベレ出版)、「お山の幼稚園で育つ」(世界思想社)。

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