ルクレティウスの生涯は謎に包まれている。生没年も定かではないが、一般には紀元前95年ごろに生まれ、55年ごろに没したとされる。聖ヒエロニュムスは、エウセビオスの『年代記』を翻訳・加筆する中で、紀元前94年の欄に「(この年)詩人ティトゥス・ルクレティウスが誕生。媚薬を飲んで狂気に陥り、狂気の合間にいくつかの巻を執筆し、それらをキケローが校正し、44歳で自殺した」と付記しているが、これらを裏付ける確かな証拠は存在しない。
ルクレティウスの没年については、4世紀の文法学者アエリウス・ドナトゥスが『ウェルギリウス伝』の中で紀元前55年10月17日と記している。ただし、この日はウェルギリウスの誕生日にもあたることから、単なる偶然の一致とみるべきか、象徴的な誇張とみるべきか、判断は難しい。
キケローがルクレティウスの作品の出版に関与していたかどうかは明らかでないが、その作品を読んでいたことは確かであろう。弟クィントゥスに宛てた書簡には、詩を論評する次のような言葉が残されている。「ルクレティウスの詩は、おまえの言うとおり、天才の輝きに満ち、技巧の限りを尽くしている」。これは紀元前54年2月の書簡に記されたものである。
聖ヒエロニュムスの記述をふまえるなら、ルクレティウスはキケローの校正を受けた後に自殺したとも解釈できるが、キケローが出版に実際に関与していたかどうかは不明である。かりに関与があったとすれば、彼の親友でありエピクロス主義者でもあったアッティクスの働きかけが想起されるが、キケローに果たしてルクレティウスの詩を校正するだけの関心や余裕があったのかどうかは、きわめて疑わしい。
一般には、ルクレティウスの死後に作品が世に出回り、それを読んだキケローが作品を評価したと考えられている。この見解によれば、ルクレティウスの死は、キケローの書簡が書かれた紀元前54年2月以前となり、ドナトゥスの証言とも照らし合わせて、紀元前55年の夏または秋に没したと推定するのが最も妥当とされる。一方、聖ヒエロニュムスの言葉を文字通りに受け取り、ルクレティウスが紀元前94年に生まれ44歳で没したとみなすなら没年は紀元前50年となるが、これを信じることは難しい。
かりに没年を紀元前55年とし、聖ヒエロニュムスの「44歳で自殺した」という記述を信じるなら、生年は紀元前99年になる。だが、一般にルクレティウスの生年は紀元前95年前後とされている。これは詩人の創作活動の円熟期を30代と仮定し、逆算した結果である。具体的には、紀元前65年(30歳)から55年(40歳)にかけて詩作に従事したという前提に基づくものであるが、それもまた曖昧な推論に過ぎない。ただし、この通説は、聖ヒエロニュムスの「紀元前94年誕生」説に多少引き寄せたものとも解釈できる。
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