アキレウスは、『イリアス』第22歌でヘクトルと戦い、勝利をおさめます。そして死にゆくヘクトルに向かって、こう言い放ちます。
「死ぬがよい。私はゼウスと他の神々がそれを終えんと欲したとき、己の運命を受け入れようぞ。」
ヘクトルの死は、トロイアの陥落を象徴しています。他方、死ぬ間際に放ったヘクトルの呪いの言葉(パリスによってアキレウスの命が果てるだろうといいます)は、そのとおり成就されます。
『イリアス』において、アキレウスの死は直接描かれません(ヘクトルの葬儀の場面で終わります)が、この作品において、ヘクトルの死後まもなくアキレウス自身命を落とすことになることは繰り返し語られます。そしてアキレウスはそのことをよく認識していました。
第18歌において、アキレウスは親友パトロクロスを失い、慰める母テティスに対し、こう述べています。
「母上、いかにもそれ(=ギリシャ軍がアキレウスのいないことを悔やみ、無残な目にあうとよいと願ったアキレウスの祈り)はオリュンポスの大神が果たしてくださいました。しかし親友を失っては、どうしてそれを喜べましょう。
あのパトロクロスは、わたしがすべての戦友の中でも、自分の命と同じくらいことのほか大切に思っていた男でした。いまわたしはその友を失い、彼を殺したヘクトルが、あの途方もなく大きく、目のさめるような美しい武具をはぎ取りました。(中略)
わたしとしても、ヘクトルめが真っ先にわたしの槍に撃たれて命を落とし、メノイティオスの子(パトロクロス)を討ってその武具を奪った報いを受けぬ限り、人の世に生き永らえる気にはならぬのですから。」
これに対し、母テティスは次のようにいいます。
「わが子よ、そなたがそのようにいうのであれば、辛いけれど長くは生きられまい、 ヘクトルに続いてすぐそなたにも死の運命が待っているのだから。」
アキレウスは己の怒り(第1巻冒頭で描かれるアガメムノンとの諍い)ゆえに、一時はギリシャ軍の敗北を祈願し、それがために親友パトロクロスの死を招きました。
パトロクロスはギリシャ軍の劣勢を見るにたえず、アキレウスの武具を身につけ、参戦しますが、戦果に酔いしれ、アキレウスの忠告(トロイア軍を深追いするな)を忘れて攻め過ぎ、ヘクトルによって殺されたのです(第16歌)。
アキレウスは、なるほどヘクトルとの対決で勝利をおさめますが、彼の怒りはそれだけでは収まりませんでした。ヘクトルの死体を戦車に結びつけて引きずり回し、陵辱を続けます(第24巻)。見るに見かねた神々(アポロンおよびゼウス)はここで介入を決め、アキレウスに死体をプリアモス(ヘクトルの父)に返還するよう促します。
他方プリアモスは、神の助力を得ながら、アキレウスの陣屋を訪れ死体の返還を申し入れます。アキレウスに向かって老王の発した言葉はこうです。
「どうかアキレウスよ、神々を憚るとともに、御尊父のことを思い起こして、このわたしを憐れんでいただきたい。わたしは御尊父よりさらに憐れむべき身の上、いまだかつて、地上に生をうける人間の一人だに耐えたことのないほどの苦しい目にも耐えたのです―――わが子を殺した人の前に手を差しのべるという・・・。」
これに対し、アキレウスは王の手をとってその身をおこし、次のように述べました。
「なんと気の毒な、あなたもその心中にさまざまな不幸を忍んでこられたのだな。それにしてもよくもまあ思い切って、単身アカイア(ギリシャ)勢の船に足を運び、多数の優れたご子息をあやめた男の目の前に出てこられたものだ。あなたの心は鉄のようだな。
まあ椅子におかけになるがよい。苦しいことごとは、辛いことではあるが、胸のうちにそっと寝かせておきましょう。心を凍らす悲しみに暮れたとて、どうにもなるものではない。そのように神々は憐れな人間どもに、苦しみつつ生きるように運命の糸を紡がれたのだ―――ご自身はなんの憂いもないくせに。ゼウスの屋敷の床には、人間にたまわれるものをいれた瓶が二つおいてあり、一つには悪いことが、もう一つには善いことが入っている。雷電を楽しむゼウスから、この二つを混ぜて賜った者は、ある時は不幸にあうが、幸せに恵まれることもある。(中略)
あなたは、御老体よ、富と子らに恵まれた一番の幸せ者であったというではないか。だがただ天上の神々が、あなたにこのたびの災禍をもららせてからは、町をめぐって戦いと流血が絶えぬこととなった。ひたすら耐えて、いつまでも胸を痛めることはなさらぬがよい。
ご子息のことをなげいたとてどうにかなるものでもないし、再びよみがえらせるわけにもゆかぬ、そうこうしているうちに、別の災難にあわれぬでもなかろう。」
この言葉は、アキレウス自身己の死を覚悟してのせりふといえます。彼のプリアモスへの言葉は、故郷に残した自分の父親ペレウスへの慰めの言葉ともいえるからです。
引用は松平千秋訳を使わせていただきました。
イリアス〈下〉 (岩波文庫)
ホメロス Homeros
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