
語彙と文法
「セー・クゥィスクゥェ・フギト」と読みます。
sē は3人称の再帰代名詞suī(自分)の男性・単数・対格です。「自分を」。
quisque は「めいめい、各々」を意味する不定代名詞quisque,quaeque,quidqueの男性・単数・主格です。「各々は」。
fugit は「逃れる」を意味する第3変化動詞(3B)fugiō,-gere の直説法・能動態・現在、3人称単数です。
「誰もが皆自分自身から逃れようとする」と訳せます。
ローマの教訓詩人ルクレーティウスの言葉です(3.1068)。
第3変化動詞(3B)について
不定法(・能動態・現在)が-ereで終わりながら、直説法・能動態・現在、1人称単数が第4変化動詞のように-iōで終わるものを第3変化動詞(3B)と呼びます。



上のfugiō(逃げる)がこれにあたります。
| agō,-ere (3) | fugiō,-ere (3B) | audiō,-īre(4) | |
| 1人称単数 | agō | fugiō | audiō |
| 2人称単数 | agis | fugis | audīs |
| 3人称単数 | agit | fuit | audit |
| 1人称複数 | agimus | fugimus | audīmus |
| 2人称複数 | agitis | fugitis | audītis |
| 3人称複数 | agunt | fugiunt | audiunt |
第3変化動詞agō,-ere(行う)、第変化動詞(3B)fugiō,-ere(逃げる)、第4変化動詞audiō,-īre(聞く)の活用を見比べてください。
3Bの動詞は、母音iの長短を無視すると第4変化動詞に近いことがわかります。ただし不定法(・能動態・現在)が-ereで終わるため、あくまでも3であって4ではない、ということになります。
文脈紹介
3.1053-1075
もし人々が、自分の心の中に重荷があり、
それが自分を苦しめていると自覚するように、
その重荷が何によって生じ、何が原因でこれほど大きな 1055
苦悩の塊が胸中に存在するかを知ることができたなら、
彼らは決して、今われわれがよく目にするような、すなわち、
めいめいが自分の求めているものがわからず、まるで移動すれば
心の重荷も軽くなるかのように、絶えず場所を変えるような生き方をしなくなるだろう。
ある者は大邸宅にいることにうんざりして、しばしば外に1060
出かけていくが、突然また戻ってくる。なぜなら、
外に出ても少しも気分が晴れないと感じるからだ。
あるいは、小型の馬を駆り立てて、まるで燃え盛る家を
救いに行くかのように別荘へと向かうが、
いざ別荘の入り口に足を踏み入れると、すぐにあくびをし、 1065
深い眠りに落ちて忘却を求めるか、
あるいは、急いで都に戻ることもある。
このように誰もが自分から逃げようとする(*)が、もちろん
実際には逃げ切ることはできない。嫌でも自分自身がつきまとい、
人は己を憎む。病みつつも、その病の本当の原因を理解しないからである。1070
もしこれをよく理解することができたなら、誰もが今すぐ万事を
投げうって、何よりもまず事物の本性を理解することに努めるだろう。
というのも、今問題となっているのは、ほんのひとときの状態ではなく、
死後に残される永遠の時間を、死すべき者たちが
いかなる状態で過ごすことになるのかという点なのだから。1075
(*) 逃げようとする: 「誰もが自分から逃げようとする」(一〇六八)はセネカが『心の平静について』(二・一四)でそのまま引用している。
かくて次から次へと好きなように旅路を渡り歩き、物見遊山の所を変えていく。ルクレティウスが言うように、「誰でも彼でもこんなふうに、いつも自分自身から逃げようとする」のである。しかしながら、自分自身から逃げ出さないならば、何の益があろうか。人は自分自身に付き従い、最も厄介な仲間のように自分自身の重荷となる。それゆえわれわれは知らねばならない──われわれが苦しむのは環境が悪いのではなく、われわれ自身が悪いのである。われわれは何ごとを堪えるにも弱く、苦労にも快楽にもおのれ自身にも、その他いかなることにも長くは辛抱できない。」(セネカ、心の平静について、茂手木元蔵訳、2.14-15)
アンダーラインした箇所は意味を取りにくいです。原文はSed quid prodest si non effugit? なので、上の訳通りです。ここは文意を汲んで、「だが(Sed)もし(si)彼が(自分から)逃げきれない(non effugit)ならば、(逃げようとして)何の役に立つか?」と訳したいところです。




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