ルクレーティウス第2巻冒頭四行解説

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ルクレーティウス第2巻冒頭四行は有名です。

逐語訳と一字一句の解説を行います。

Suāve, marī magnō turbantibus aequora ventīs
ē terrā magnum alterius spectāre labōrem;

Suāve: 第3変化形容詞suāvis,-e(快い)の中性・単数・主格。文の補語。動詞estを補う。主語はspectāre。
marī: mare,-is n.(海)の単数・奪格。「海で」。
magnō: 第1・第2変化形容詞magnus,-a,-um(大きな)の中性・単数・奪格。marīにかかる。「大きな(magnō)海で(marī)」。
turbantibus: turbō,-āre(波立たせる、揺り動かす)の現在分詞、男性・複数・奪格。ventīsにかかる。aequoraを目的語にとる。
aequora: aequor,-oris n.(海、海原)の複数・対格。
ventīs: ventus,-ī m.(風、嵐)の複数・奪格。turbantibus…ventīsは「絶対的奪格」。「嵐が(ventīs)波立たせるとき(turbantibus)」。
ē: <奪格>から
terrā: terra,-ae f.(陸地)の単数・奪格。
magnum: 第1・第2変化形容詞magnus,-a,-um(大きな)の男性・単数・対格。labōremにかかる。
alterius: 代名詞的形容詞alter,-era,-erum(第二の、他の、他人の)の男性・単数・属格。ここでは「他人の」の意味で使われている。labōremにかかる。
spectāre: spectō,-āre(見る)の不定法・能動態・現在。
labōrem; labor,-ōris m.(苦しみ)の単数・対格。

<逐語訳>
大きな(magnō)海で(marī)海原を(aequora)嵐が(ventīs)波立たせるとき(turbantibus)、陸地(terrā)から(ē)他人の(alterīus)大きな(magnum)苦しみを(labōrem)見ることは(spectāre)快い(Suāve )。

nōn quia vexārī quemquamst iūcunda voluptās,
sed quibus ipse malīs careās quia cernere suāvest.

nōn: 「~でない」。nōn A sed B(AでなくむしろB)の構文におけるnōn。
quia: ~なので
vexārī: vexō,-āre(苦しめる)の不定法・受動態・現在。
quemquamst=quemquam est: quemquamは不定代名詞quisquam,quidquam(誰か、何か)の男性・単数・対格。不定法(vexārī)の意味上の主語(「対格不定法」)。estは不規則動詞sum,esse(である)の直説法・現在、3人称単数。
iūcunda=jūcunda: 第1・第2変化形容詞jūcundus,-a,-um(楽しい)の女性・単数・主格。voluptāsにかかる。
voluptās: voluptās,-ātis f.(喜び)の単数・主格。「誰かが(quemquam)苦しめられることが(vexārī)楽しい(iūcunda)喜び(voluptās)である(est)から(quia)ではなく(nōn)」。
sed: 「むしろ」。nōn A sed B(AでなくむしろB)の構文におけるsed。
quibus: 疑問形容詞quī,quae,quod(いかなる)の中性・複数・奪格。malīsにかかる。
ipse: 強意代名詞ipse,-a,-um(自ら、自身)の男性・単数・主格。
malīs: malum,-ī n.(不幸)の複数・奪格。
careās: careō,-ēre(<奪格>を免れる、逃れる)の接続法・能動態・現在、2人称単数。主語は「あなた、君」。
quia: ~なので
cernere: cernō,-ere(見る)の不定法・能動態・現在。
suāvest=suāve est: suāveは第3変化形容詞suāvis,-e(快い)の中性・単数・主格。estは不規則動詞sum,esse(である)の直説法・現在、3人称単数。

<逐語訳>
誰かが(quemquam)苦しめられることが(vexārī)楽しい(iūcunda)喜び(voluptās)である(est)から(quia)ではなく(nōn)、君自身が(ipse)いかなる(quibus)不幸を(malīs)免れているかを(careās)見ることが(cernere)快い(suāvest)から(quia)である。

<参考書>
「ルクレティウス『事物の本性について』愉しや、嵐の海に」(小池澄夫、瀬口昌久、岩波書店)

以下はこの四行の小池氏の訳

「愉しきかな、大海に、冬波さかまく嵐のさなか
余人の大いなる惨苦を陸地から眺めるのは。
誰か人が苦しんでいるから心嬉しいのではない
おのれの免れた災厄をつぶさに知ることが愉しいのだ。」

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この記事を書いた人

ラテン語愛好家。京都大学助手、京都工芸繊維大学助教授を経て、現在学校法人北白川学園理事長。北白川幼稚園園長。私塾「山の学校」代表。FF8その他ラテン語の訳詩、西洋古典文学の翻訳。キケロー「神々の本性について」、プラウトゥス「カシナ」、テレンティウス「兄弟」、ネポス「英雄伝」等。単著に「ローマ人の名言88」(牧野出版)、「しっかり学ぶ初級ラテン語」、「ラテン語を読む─キケロー「スキーピオーの夢」」(ベレ出版)、「お山の幼稚園で育つ」(世界思想社)。

コメント

コメント一覧 (2件)

  • 4行目の careās の解釈がどうしても分からないので質問させてください。

    先生が解説されている通り、この語は「接続法・能動態・現在、2人称単数」であるはずですが、
    参考として記載されている小池訳では「『おのれの』免れた災厄を〜」として1人称的に解釈しています。

    ここで疑問に思って、他の翻訳を参照したところ、
    樋口訳「物の本質について」(岩波文庫)では、
    「『自分は』このような不幸に遭っているのではない」、
    Perseus で参照可能な英訳では、
    「what evils “we ourselves” be spared」と、
    いずれも1人称的に訳出していました。(※強調はすべて質問者)

    なぜこのような解釈が可能になるのでしょうか?
    お手隙の際に補足いただけると幸いです。

  • 山下です。
    ご質問いただきありがとうございます。
    要は直訳と意訳の相違ですね。
    「君が」とするより「自分が」の方が日本語として通りがよさそうです。
    ではなぜルクレーティウスは一人称単数でなく二人称単数で表したのか?と考えるとき、ひとつ思い浮かぶ解釈があります。
    それは、この詩そのものがメンミウスというルクレーティウスの友人にあてたものだ、ということからわかるとおり、ここで念頭にあった「君は」とは「メンミウス」のことではないか、というものです。
    しかし、ここの訳をそのとおり「君が・・・」としたのでは、「君ってだれだっけ?」となるので、しいて「君が」と訳すなら、注が必要だろうと思います。
    であれば、文意が損なわれない範囲内で「自分が」としたり、「我々が=君と僕が」としているのだと思います。

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