冒頭の表現に続けて、詩人はムーサに次のような問いを出します。
「そもそも二人を争わしめたのは、いかなる神であったのか。これぞレトとゼウスの子(アポロン)、神はアトレウスの子(アガメムノン)が祭司クリュセスを辱めたことを憤り、陣中に悪疫を起こし、兵士らは次々に倒れていった。」
この悪疫の原因について、占い師カルカスは、
「アガメムノンがかの祭司に恥辱を加えた。娘(クリュセイス)を返してもやらず、身の代も受け取らなかった。」
と解説しますが、これに対しアガメムノンは怒ってこう言います。
「即刻わしに代わりの取り分を用意するのだぞ。アルゴス勢の中にあって、わしだけが戦利品の配分に与らぬという法はない」。
アガメムノンは、己の強欲をたしなめたアキレウスに怒りの矛先を向け、結果として彼の愛するブリセイスをうばうと言い出します。
「そなたごときは眼中にない。わしを恨もうが意には介さぬ。ただよく聞いておけよ、わしは必ずこうしてやる---クリュセイスはポイボス・アポロンがわしからおとり上げになるのであるから、その娘にはわしの家来を付け、わしの船で送ってやる。
その代わりそなたの手柄の印である頬美わしいブリセイスは、わしが自らそなたの陣屋へ赴いて連れてゆく。さすればそなたも、わしとはいかに身分が違うかを悟るであろうし、また他の者たちもわしに対等の口をきいたり、面と向かって等(ひと)し並に振る舞うことを遠慮するであろうからな。」
この言葉を聞いたアキレウスの心中描写は以下の通りです(188以下)。
アガメムノンがこういうと、ペレウスの子は怒りが込み上げ、毛深い胸のうちでは、心が二途に思い迷った。鋭利の剣を腰より抜いてかたわらの者たちを追い払い、アトレウスの子をうちはたすか、あるいは怒りを鎮め、はやる心を制すべきかと。
かく心の中、胸のうちに思い巡らしつつ、あわや大太刀の鞘を払おうとしたとき、アテネが天空から舞い降りてきた。二人の勇士をともにいつくしみ気遣うヘレが遣わしたのであったが、背後から歩み寄ると、ペレウスの子の黄金色の髪をつかんだ。
女神の姿はアキレウスのみに現れて、他のものの目には映らない。驚いて振り向いたアキレウスは、すさまじいばかりに輝く女神の両目を見て、すぐにパラス・アテネをそれと識った。
アキレウスは、「いまはじっとこらえよ」と告げる女神の言葉に従い、殺意を押し殺します。しかしアガメムノンに対しては、「必ずやいつの日か、アカイアの子ら(ギリシア人)のすべての胸に、このアキレウスの不在を嘆く想いが湧き起こるであろう」と言い残し、戦線を離脱します。