キケローは『老年について』の中で、老人が気むずかしいという意見について、次のように反論しています。下の引用文の最後に出てくる『兄弟』とはテレンティウスの喜劇作品のことです(西洋古典叢書から私の訳が出ています)。この作品では温厚な老人と気むずかしい老人が出てきます。この作品を例に挙げることで、キケローは「気むずかしい老人はいるかもしれないが、すべての老人がそうではない。テレンティウスのミキオー(温厚な老人)のことを思い出したまえ」と言っているようです。
65節. At sunt morosi et anxii et iracundi et difficiles senes. Si quaerimus, etiam avari; sed haec morum vitia sunt, non senectutis.
だが老人は(senes)頑固で心配性、怒りっぽく気むずかしい。(と反論するだろう。)もし求めるなら、どん欲で(avari)さえある。だが、これらは(haec)(個々人の)性格の欠点であり、老年(に共通)の欠点ではない。
Ac morositas tamen et ea vitia, quae dixi, habent aliquid excusationis non illius quidem iustae, sed quae probari posse videatur; contemni se putant, despici, inludi; praeterea in fragili corpore odiosa omnis offensio est. ~ しかし(tamen)頑固さや今私の述べた(dixi)欠点(vitia)はある種の弁解の余地を有している(直訳は「言い訳の幾分かを持つ」)。かの正当な(justae)弁解でなく、是認されうると(probari posse)見なせるような弁解であるが。すなわち、老人は自分が(se)馬鹿にされ、軽蔑され、笑いものにされていると思っているし、さらに(praeterea)脆弱な肉体においては(in fragili corpore)すべての攻撃が(omnis offensio)憎むべきもの(odiosa)となる。
Quae tamen omnia dulciora fiunt et moribus bonis et artibus; idque cum in vita, tum in scaena intellegi potest ex eis fratribus, qui in Adelphis sunt. ~ だがこれら(quae)すべて(の欠点)は(omnia)立派な生活態度や(moribus bonis)生きる工夫によって(bonis…artibus)(周囲にとって)受け入れやすくなる(dulciora fiunt)。そしてこのことは(idque)、実人生においてだけでなく(cum in vita)舞台においても(tum in scaena)『アデルポエ(兄弟)』に出てくるあの兄弟の例から(ex eis fratribus)理解されうるだろう(intellegi potest)。
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