閑暇の実り:キケロー『弁論家について』

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『弁論家について』の本題とは直接関係はない箇所に、閑暇(otium)の意義をめぐるちょっとした表現が見つかりました。

verum oti fructus est non contentio animi, sed relaxatio. (D.O.2.6.22)

しかし(verum)閑暇の(oti)実りとは(fructus)精神の(animi)緊張(contentio)ではなく、(精神を)ゆるめること(relaxatio)である。

いつも忙しい人にたいして、時にはリラックスすることが大事であるといいます。

Quando denique nihil ages? 結局のところ、あなたはいつになったら何もしないのか。

次のような定義もくだされます。

mihi enim liber esse non videtur, qui non aliquando nihil agit.
実際(enim)わたしには(mihi)自由ではないと(liber esse non)思われる(videtur)、時々(aliquando)何もしないことをしない(non…nihil agit)ような人は(qui)」。

直訳はかえってわかりづらいと思います。大西先生の訳では、「時に何もしない時間をもたないような人間はわたしには自由人とは思われない」となっていてよくわかります。

ちなみに、最初に引いた引用文の大西訳は、「しかし、実りある閑暇とは、精神を緊張させることではなく、精神を解きほぐすことなのである」となっています。

関連図書:
弁論家について〈上〉 (岩波文庫)
キケロー Cicero
4003361148

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この記事を書いた人

ラテン語愛好家。京都大学助手、京都工芸繊維大学助教授を経て、現在学校法人北白川学園理事長。北白川幼稚園園長。私塾「山の学校」代表。FF8その他ラテン語の訳詩、西洋古典文学の翻訳。キケロー「神々の本性について」、プラウトゥス「カシナ」、テレンティウス「兄弟」、ネポス「英雄伝」等。単著に「ローマ人の名言88」(牧野出版)、「しっかり学ぶ初級ラテン語」、「ラテン語を読む─キケロー「スキーピオーの夢」」(ベレ出版)、「お山の幼稚園で育つ」(世界思想社)。

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