Q. 形容詞の副詞的用法とは?

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形容詞の副詞的用法について

Q. 「形容詞の副詞的用法」がよくわかりません。

A. 日本語の例で考えてみましょう。

日本語の場合、「美しい」「花が」「咲く」と言いますが、「花が」「美しい」「咲く」とは言いません。

ところが、ラテン語の場合、「花が美しい咲く」と言うのです。言葉を足すと「花が美しい状態で咲く」と言います。もちろんこれを「花が美しく咲く」と言い直さないと日本語として意味は通りません。

「美しい」という形容詞を「美しく」と副詞に変換して文意をとることが求められます。これがラテン語の「形容詞の副詞的用法」のイメージです。

Caesar prīmus vēnit.というラテン語の表現を例にとると、この文の形容詞prīmusがこの用法に該当します。

prīmusは、第1・第2変化形容詞prīmus,-a,-um(最初の)の男性・単数・主格で、主語カエサルと性・数・格が一致しています。

「カエサルは」「最初の(状態で)」「来た」という具合に単語が並んでいますが、日本語にする場合、「カエサルは」「最初に」「来た」としないと意味は通じません。

ただここで厄介な問題があります。ラテン語は語順が自由なのです。したがって、prīmusをふつうにCaesarにかけて訳してはいけないのか?という疑問が生じます。

つまり、「最初の」「カエサルは」「来た」と並べてはどうか?という問いです(この場合のprīmusのはたらきを「形容詞の属性的用法」といいます)。

どちらがよいかの判断は、結局のところ文脈次第です。

「カエサルが最初に来た」がよいか、「最初のカエサルが来た」がよいか?後者は日本語として意味が不鮮明ですね。なんだか二人目、三人目のカエサルがいそうです。

そう考えると、前者がよい、ということになります。

実際の例を紹介します。

Tacitī ventūra vidēbant.(Aen.2.125)

このラテン語の詩句をどう訳せばよいでしょうか。太字の形容詞が「副詞的用法」だというのが結論です。

Tacitīは第1・第2変化形容詞tacitus,-a,-umの男性・複数・主格で「黙っている(状態の)」、ventūraはveniōの未来分詞ですが名詞的に用いられ、「これから起こること」を意味します。また、vidēbantはvideōの直説法・能動態・未完了過去、3人称複数で、「彼らは見ていた」と訳せます。

ここでTacitīを「形容詞の副詞的用法」ととると、「彼らは黙ってこれから起こることを見守っていた」と訳すことが可能です。「黙った状態で」が直訳で、それをもとにして「黙って」とか、「黙ったまま」といった具合に自然な日本語に調整します。

もちろん、「黙っている彼らはこれから起こることを見守っていた」と訳しても、文法的に間違いではありません。この場合、tacitīを「形容詞の属性的用法」ととることになります。言い換えると、この形容詞は動詞vidēbantから割り出せる主語「彼らは」(ラテン語としてこの人称代名詞は省略)を修飾すると考えます。

他の用法との区別について

これを言うと話がややこしくなるのですが、形容詞には名詞的用法というのがあります。この文のtacitīを形容詞の「名詞的用法」とみなす場合、tacitīは「黙っている者たちは」と訳すことになります。

その場合、「黙っている者たちは(tacitī)、これから起こることを見守っていた」という訳になります。

上の例文は『アエネーイス』に出てくる詩行ですが、「岡・高橋訳」は、「口に出さぬ者も何が起こるか見通していました」となっていて、tacitīを「形容詞の名詞的用法」ととっていることがわかります。

どれがよいのか?大事なことは上に挙げた選択肢があるという事実を承知しておくこと、あとは文脈を自分なりに考えて一番しっくりくる訳語を考えることです。

ちなみに私はこの箇所を「副詞的用法」ととって、次のように訳します。文脈を知っていただくため、少し前の部分も含めて拙訳を紹介します。

彼は神殿から恐ろしい言葉を持ち帰った。 115
「ダナイー人よ、かつてなんじらは乙女を屠り、その血によって風を鎮め、
初めてイーリウムの岸辺にやって来た。
帰国を求める際にも血を流さねばならない。今度はアルゴス人の命によって
吉兆を得るときだ」。この言葉が群衆の耳に入ったとき、
皆の心は呆然とし、冷たい震えが骨の髄を走り抜けた。120
だれにそのような運命が訪れるのか、アポッローは誰を求めるのか。
このとき、騒然とした群集の真ん中にあのイタカ人が予言者カルカースを
連れて現れ、神々の意志は何であるのかをしつこく問うた。
すでに多くの者がこの策士のわたしへの残酷な
仕打ちを予言し、黙って事の成り行きを見守っていた。125

この文の「わたし」とはトロイア戦争の「木馬の計略」で一芝居をうったシノーンです。tacitīは前の行の「多くの者」(multī)と性・数・格が一致するので、「多くの者が・・・黙って」と訳しました。

その他の例文

このサイトの検索ボックスで「副詞的用法」で検索するといろいろ例文が見つかります。次の例は再びウェルギリウスの『アエネーイス』の一文です。

Arma āmens capiō.(Verg.Aen.2.314)
わたしは無我夢中で武器をつかむ。

armaはarma,-ōrum n.pl.(武器)の対格、āmensは第3変化形容詞āmens,-entis(正気を失った)の男性・単数・主格、主語の「私」と性・数・格が一致し、この文では副詞的に用いられています。capiōはcapiō,-ere(つかむ)の直説法・能動態・現在、1人称単数です。すなわち、「私はつかむ」。

「私は正気を失った状態で(āmens)(=正気を失って)武器をつかむ」というのが直訳です。トロイアに火が放たれ、祖国崩壊の危機のさなか、主人公のアエネーアースは無我夢中で武器を手にし、ギリシア軍に反撃を試みようとする際の表現です。

GERMANY – CIRCA 2002: The burning of Troy, ca 1604, by Adam Elsheimer (1578-1610). (Photo by DeAgostini/Getty Images); Monaco, Alte Pinakothek (Art Gallery). (Photo by DeAgostini/Getty Images)

この教科書では43ページで「形容詞の副詞的用法」について説明しています。

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この記事を書いた人

ラテン語愛好家。京都大学助手、京都工芸繊維大学助教授を経て、現在学校法人北白川学園理事長。北白川幼稚園園長。私塾「山の学校」代表。FF8その他ラテン語の訳詩、西洋古典文学の翻訳。キケロー「神々の本性について」、プラウトゥス「カシナ」、テレンティウス「兄弟」、ネポス「英雄伝」等。単著に「ローマ人の名言88」(牧野出版)、「しっかり学ぶ初級ラテン語」、「ラテン語を読む─キケロー「スキーピオーの夢」」(ベレ出版)、「お山の幼稚園で育つ」(世界思想社)。

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