Q. 動名詞の主格はなぜないのか?

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Q. 動名詞に主格はなぜないのですか?

A. 動名詞の主格がもしあれば、「~することは」と訳せるはずです。たとえば「生きることは考えることである」をラテン語で表わす場合、Vīvendum est cōgitandum.とすればよいのでは?と考える人がいてもおかしくはありません。動名詞は中性名詞の単数扱いするので、動名詞の主格は(もしあれば)その対格と同じ形になるはずだからです。vīvō(生きる)の動名詞の対格はvīvendum、cōgitō(考える)の同じ形はcōgitandumで、これらを使えば上のように表現できるのに、なぜ文法書に「主格がない」と記述されるのでしょうか。私の答えは、「その役目を不定法が担うから」です。実際、キケローは、Vīvere est cōgitāre.と不定法(・能動態・現在)を用いて上の日本語の意味を表現しています。

別の例を紹介します。

英語の場合、「百聞は一見に如かず」(見ることは信じること)を、To see is to believe.ともSeeing is believing.とも表現しますが、ラテン語では動名詞は使わず、不定法を用いてこれを表します。すなわち、Vidēre est crēdre.が「百聞は一見に如かず」に相当する表現です。

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この記事を書いた人

ラテン語愛好家。京都大学助手、京都工芸繊維大学助教授を経て、現在学校法人北白川学園理事長。北白川幼稚園園長。私塾「山の学校」代表。FF8その他ラテン語の訳詩、西洋古典文学の翻訳。キケロー「神々の本性について」、プラウトゥス「カシナ」、テレンティウス「兄弟」、ネポス「英雄伝」等。単著に「ローマ人の名言88」(牧野出版)、「しっかり学ぶ初級ラテン語」、「ラテン語を読む─キケロー「スキーピオーの夢」」(ベレ出版)、「お山の幼稚園で育つ」(世界思想社)。

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