「ウィクシー・エト・クゥェム・デデラト・クルスム・フォルトゥーナ・ペレーギー」と読みます。
vixī は「生きる」を意味する動詞 vīvō,-ere の直説法・能動態・完了、1人称単数です。vīvōの見出しとして、『羅和辞典』(研究社)は、vīvō, -ere,vixī, victumとしています。vīvōの完了は「生き終えた」、すなわち「死んだ」という意味になります。例)Vixit.(彼は生きた=彼は死んだ)。この文は、1人称単数の話者が死を目の前にして口にする台詞です。
etは「そして」を意味する接続詞です。2つの動詞 Vixīとperēgīをつなぎます。
quem は関係代名詞、男性・単数・対格です。先行詞は cursum です。
dederatは不規則動詞 dō,dare(与える)の直説法・能動態・過去完了、3人称単数です。この過去完了は、主文の動詞 perēgī(時制は完了)以前に終わっている行為を意味します。この動詞の主語は fortūna(運命)です。
cursumは第4変化名詞 cursus,-ūs m.(旅路)の単数・対格です。
fortūnaは第1変化名詞 fortūna,-ae f.(運命)の単数・主格です。
perēgīはperagō,-ere(成し遂げる、完了する)の直説法・能動態・完了、1人称単数です。目的語はcursumです。「旅路を完了する」とは「旅路を最後まで歩き抜いた」ということです。
語順がわかりづらいのでわかりやすく書き直すと、Vixī et cursum quem fortūna dederat perēgī.となります。
「私は生きた(vixī)。そして(et)運命が(fortūna)(かつて)与えた(dederat)ところの(quem)旅路を(cursum)私は完了した(perēgī)。」と訳せます。
この訳を踏まえ、「私は生を終え、運命が用意した旅路を最後まで歩きとおした」等、自由に意訳は可能です。
ウェルギリウス(『アエネーイス』4.653) にみられる表現です。
これはカルターゴーの誇り高き女王ディードーの最期の言葉です。ラテン語では、「生きる」という言葉の完了形が死を意味する点に注意します。文字通り死とは生をパーフェクトなものにするということです。
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[…] Vixī et quem dederat cursum fortūna perēgī. dederatはded-eratと分解できます。完了幹がded-となる動詞はdō(与える)です。perēgīはperagō(完了する)の直説法・能動態・完了です。その目的語を修飾するquemの導く従属文中にdederatが用いられています。私が旅路(cursum)をperēgīした時点よりも、運命(fortūna)がそれを与えた(dederat)時点が時間的に「以前」なので、dederatは過去完了になります。この当たりの考え方は英文法で学んだ「過去完了」と同じです。 […]