主題と劇の展開
テレンティウスの『兄弟』は、父親のあるべき姿、教育の本質的問題を正面から取り扱った知的な喜劇とみなされる。若い息子の恋愛問題に対して父親は厳格な態度で処すべきか、それとも、子の自主性を重んじて寛大な態度で臨むのがよいのか。この作品は、ある意味で現代社会にも通じるホットな教育問題を主題として取り入れている。
主役は二人の父親であるが、作品名から窺えるとおり、彼らは互いに兄弟である。喜劇の常、二人の性格は対照的に描かれ、兄は「頑固親父」、弟は「リベラルな父」として登場する。加えて、兄は田舎に住む既婚者で貧しく、これに対し、弟は都会に住む独身貴族として――兄から息子を養子にひきとっているが――ゆとりのある暮らしを謳歌している。このような社会的立場の相違も、劇の後半で重要な意味を持ってくる(後述)。
さて、劇の冒頭でも説明されるとおり、「兄」は結婚し二人の息子――この二人も「兄弟」ということになる――をもうけたが、そのうち一人を「弟」に養子に出した。それぞれの息子は、今では恋多き若者に成長している。こうして、頑固親父に育てられた子とリベラルな父に育てられた子の対比が用意され、それぞれの息子の巻き起こす事件を通じ劇は進行していく。
劇の前半では、頑固親父に育てられた息子――二人息子の「弟」にあたる――の放蕩が第一の事件を引き起こす。この息子は父の信頼を裏切り遊女と恋に落ちるが、リベラルな父に育てられた息子――こちらが「兄」にあたる――は自分が遊女を愛しているふりを装い、弟のために女を置屋から奪い去る。弟と女の関係が頑固親父にばれることを恐れて、彼は一肌脱いだのであった。
この事件はたちまち町中の噂となり、頑固親父の耳にも入った。事件の真相――自分の息子と遊女との恋愛関係が事件の真の原因であること――を知らぬまま彼は激昂し、リベラルな父をつかまえてこう怒鳴る、おまえの寛大な教育が息子を放蕩に走らせ、世間を騒がせる原因をつくったのだ、と。
一方、劇の後半は、リベラルな父に育てられた息子の恋愛問題を軸に展開する。この息子には「愛」(アモル)にかられて子を宿らせ、結婚を約束した女がいたが、父にこのことを切り出す勇気がないまま月日が流れていた。今や彼女は臨月を迎え、出産も間近に迫っていた。そんな折り、第一の事件――遊女を愛しているふりをし、彼女を置屋から奪い去った――は彼を疑惑の渦中へと追いやる。すなわち、彼が婚約者を捨てて別の女を囲っているとの噂が婚約者の家族の耳に入ったのである。この噂は真実ではないが、誤解されるだけの条件が揃っていた。婚約者の家族は失意のどん底へと突き落とされ、この噂を聞いた頑固親父の怒りは頂点に達する。
劇の展開において重要なのは、これらの噂の真相をそれぞれの父がどのような形で知るのかという点である。各々の噂を額面通りに受け取ると、頑固親父が主張するとおり、リベラルな父の甘い教育方針がルーズで社会性のない子を育てた、という結論になるが、もとより噂は真実ではない。
第一の事件については、事件の真相を知る奴隷がリベラルな父にはそれを教え、頑固親父には最後まで教えない――つまり、頑固親父は最後まで蚊帳の外に置かれる――という展開を取る。誤解が妄想を呼び、終始、的はずれな批判と言動を繰り返す頑固親父の姿は、喜劇的効果の演出に十分寄与するものといえる。
第二の事件は、リベラルな父と彼の息子が、今まで以上に信頼し合うきっかけを提供するものとなる。すなわち、世間の誤解によって追いつめられた息子は、感極まって父に真相を打ち明けるが、この際父の前で見せる息子の涙は、彼が婚約者を愛する真心を証明するものであり、父の――そして観客の――心を打つものであった。
こうした劇の展開から、観客の目には、リベラルな父の教育方針が頑固親父のそれよりも優れていることが印象づけられる。しかし、劇はここで幕を閉じるのではない。この作品には意外な結末――頑固親父の仕返し――が用意されている。
頑固親父の仕返し
劇の冒頭の場面はリベラルな父の独白で始まるが、これに対応する形で、劇の終わり近くには頑固親父の独白が用意されている。
事件の真相を知った彼はショックを受け、これまでの厳格な教育方針を放棄しようと決意する。弟(=リベラルな父)はみなに慕われているが、自分はみなに嫌われているという認識から、「愛想良く寛大に生きることが、人間にとって最も大切なことなのだ」と合点し、次のように述べる。
辛い目に会うのはいつもこのわしで、いい目をするのは、いつもあいつだ。
よし、わかったぞ。これからは正反対のことをしてやるぞ。
人に愛想よく話したり、親切にしたりするのは、今度はわしの番だ。あい
つが先手を打ったのだからな。
わしだって家族の皆から愛されたいし、尊敬もされたい。
もし物を与えたり、言いなりになることでそれが叶うなら、脇役なんか誰
がやるものか。 880
この言葉通り、作品の残り百行ほどにおいて、頑固親父はこれまでとはまるで「正反対」の態度を見せることによって、息子や奴隷たちの感謝と尊敬を得ようとする。しかし、彼がここで取った行動は、そのどれもが常軌を逸したものばかりであった。また、どれもがリベラルな父の金銭的損失をもたらすものばかりであった。すなわち、彼の奴隷を勝手に解放したり、隣家(息子の結婚相手の家)との壁をぶち壊すよう命じたり、老いた未亡人(息子の結婚相手の母)との結婚を承諾させたり、挙げ句の果てには彼の土地を無断で他人(息子の結婚相手の親戚)に譲ったりした。つまり頑固親父は、リベラルな父の財産を利用して、息子や奴隷の希望を聞き入れ、彼らの尊敬を勝ち得ようとしたのである。
一方、リベラルな父は自分の財産を守ろうとして、次第に「頑固な父」の役を演じるよう追い込まれていく(彼は息子や奴隷の相次ぐ要求を素直に受け入れることはできない)。今や「主役」は頑固親父のものとなり、リベラルな父は「脇役」に追いやられる。これが頑固親父のねらいであり、彼は最終的に「相手の剣で相手を刺した」と凱歌をあげる。
作品の真の主題
だが、劇の終盤における頑固親父の「仕返し」は、観客の目にはどう映ったのだろうか。実際のところ、唐突で意味不明なものと感じられたに違いない。作者は、この疑問に答えるべく、「どうして急に態度を変えたのか」とリベラルな父に問わせ、頑固親父には次のように答えさせている。それは、同時に観客に対する作者のメッセージともなっている。
実はあんたに教えてやりたいことがあったのさ。これまで二人の息子はあ
んたのことを人当たりのいい気さくな男と思ってきたようだが、
それは何もあんたの正直な生き方から生まれた結果ではないし、ましてや
正しい立派な人格のもたらした結果でもない。
何でも言うことを聞いてやり、甘やかし放題甘やかし、欲しがる物を何で
も買ってやった結果に過ぎなかったわけさ。
リベラルな父の教育観そのものが間違いであったというのではない。彼が作品の冒頭で開陳した「寛大な教育観」は、現代にも通じる普遍性をたたえている。だが、彼はたまたま金の力によって普段から寛大な態度を取ることができたに過ぎず、頑固親父の「仕返し」に会うまではそのことに気づかずにいた。むろん、観客もそうであった。
一方、頑固親父にしても、すでに見たように、息子たちの引き起こした事件によって自らの教育方針が厳しすぎたことを反省した。つまり、当初自負していた自分の教育観を絶対視することをやめた。
こう考えるとき、この作品で問われているのは、厳密に言えば、二つの教育観のどちらが正しいのか――劇の初めではそれが期待されていた――という問題ではないことに気づく。もし、このことがもっとも重要なテーマであるなら、リベラルな父が最後に仕返しを受けることの意味が十分に説明できないだろう。むしろこの劇では、二人の父親が、自分の信じる主義や主張から離れたところで、いかに息子と心を通わせることが出来るのか、という点にスポットが当てられているように思われる。
先に触れたように、リベラルな父が、結婚問題を通じて、息子と真に心を通わせることが出来たのは、彼が息子の要求を何でも聞き入れ、寛大な態度を取ったからではなく、人間にとって本当に大切なことは何かを考えさせようとして、息子が涙を流すまで問いかけをやめなかったことによる。
一方、頑固親父は、すでに見たように、劇の展開上、息子の事件の真相を最後まで知らされず、いわば蚊帳の外に置かれていた。そのような状況の中で、彼が息子や周囲に向かって怒りを爆発させたのは、子を思う親として当然の行為であった。今、事件の真相を知った彼は、リベラルな父に言うべき事を述べた後で、息子には次のような言葉をかける。
そんなわけで、今までのわしの生き方が、おまえたちにとって気にくわな
い面があったとしても、
それは善悪を問わず、何であれ、わしはおまえたちの機嫌をとるつもりが
なかったからなんだ。 990
だがわしもな、今までのやり方はもうやめにするよ。これからも好きなだ
け金を使えばいいし、やりたいようにやればいい。
だがな、もし若気の至りで物事の本質がよく見えないときや、
どうしても欲望に負けてしまうとか、熟慮に欠けてしまうことがあって、
それについてわしに叱ってほしいとか、正してほしいとか、ここというと
きに力になってほしいとか思うのなら、そのときには、
いつだっておまえたちのために力になってやるつもりだ。
もし、この作品の主題が二つの教育観のどちらが優れているかという点にあるなら、この最後の台詞のもつ意味は不鮮明である。だが、本作品においては、それぞれの父がいかに息子と心を通わせるのかという点に焦点が当てられていると考えるとき、この最後の台詞は、真に思いやりのある父親の台詞として、この劇を締めくくるのにふさわしい言葉であると考えられる。
評価その他
『兄弟』は前一六〇年に上演された。前口上でいわれるように、この作品はメナンデルの原作にディピルスの作品の一部を取り入れて構成されている。つまり、原作を忠実に模倣した作品というよりも、テレンティウスによる新しい作品創造の意欲を感じさせる作品とみなせるだろう。
本作品をテレンティウスの最高傑作と評価する声もある一方、その結末部――「頑固親父の仕返し」――については、リベラルな父の扱いが不当であるとする意見や、頑固親父が己の態度を180度変える理由付けが希薄である等の批判も行われる。これとは逆に、この最終場面の意義を積極的に評価する見解については、すでに本解説で紹介したとおりである。
とはいえ、メナンデルの『兄弟』は、断片としてごく一部(合計20行ほど)が伝わるのみであるため、四世紀の注釈家ドナトゥスのコメントを手がかりとしても、テレンティウスがこの原作のどの部分をどの程度まで改変しているかについて、断定的なことは何も言えない。
なお、モリエールの『亭主学校』(1661年)は、本作品を下敷きにして描かれたとされる。
その他
翻訳に際して底本以外に用いたテクスト、注釈、翻訳は次の通りである、
Martin, R.H., Terence: Adelphoe, Cambridge, 1976.
Sargeaunt, J., Terence II, London (Loeb Classical Library), 1912.
Sloman,A., P.Terenti Adelphi, Oxford, 1887.
ローマ喜劇集〈5〉 (西洋古典叢書)
テレンティウス 山下太郎