ヘーローとレアンドロスの悲劇について、ウェルギリウスは『農耕詩』第3巻258-263で次のように言及しています。
「恐ろしい愛に身を焦がす、かの若者を想え。彼は真暗な夜更けに、嵐が吹き荒れ波立ち騒ぐ海峡を泳ぎ渡る。彼の頭上には天の巨大な門が雷鳴を発し、断崖に突き当たる波は引き返せと叫ぶが、哀れな両親も、まもなく嘆きのあまり死ぬことになる乙女も、彼を呼びとめることはできない。」(河津千代訳)
このエピソードは「人間にも動物にも愛は変わりなく襲いかかる」という考え (amor omnibus idem) を裏付ける具体例として語られています。
一方、詩人は先行する箇所で、「愛を遠ざける必要性」を強調しています。いわく、「家畜を愛や盲目の愛の刺激から遠ざけることほど、その体力を強める上で効果的な世話はない。」と。
この言い回しは、エピクロス派の詩人ルクレーティウスの表現(4.1058以下)をふまえています。
1058-1072
これがわれわれにとってのウェヌスである。そこから愛(*)(アモル)の名が
生まれ、そこからまず、かのウェヌスの甘美な雫が
心の中に滴り落ち、冷たい心労がその後に生じる。1060
なぜなら、愛する相手がいなくても、その人の幻影は目の前から
離れず、その甘い名前が耳元に響くからである。
だが、その幻影は避けるべきである。愛を育むものを
遠ざけ、心を他に転じなければならない。
溜まった液体は誰かれかまわず注ぎこむべきであり、1065
体にとどめることをせず、一人の愛に執着して、
いつまでも悩みと確かな痛みを持ち続けるべきではない。
なぜなら、最初の傷を新しい刺激でまぎらし、
移り気な愛の導きによって心を緩ませ、
心の動きを他に向けてその傷を治療しないかぎり、1070
愛の傷は養うことで生き続け、やがて古傷となり、
日々狂気をつのらせ、心の苦しみを増していくからである。
(*) amorの訳語。アモルは恋愛の神クピードーの別名。ウェヌスはクピードーの母。
ウェルギリウスの場合、たしかに家畜の世話と関連づけて「愛は遠ざけよ」と述べていますが、初めに触れたヘーローとレアンドロスの例でもおわかりいただけるように、そうすることがむしろ不可能な現実を強調しているように思われます。この点がルクレーティウスとの相違点です。
ルクレーティウスは、引用文の後の箇所で、「だが、愛する女がいかに美しい容姿に恵まれ、その全身からウェヌスの魅力があふれているとしても、 代わりの女は必ずいるだろう」と述べ、一人の愛に執着しないことを助言しています。