ルクレーティウスの『事物の本性について』(岩波文庫、樋口訳)第5巻1416以下には、次のような文明批判が認められます。所有欲批判の立場は、作品の全体を貫くこの詩人の基本的立場です。むろんギリシアの哲学者エピクロスの立場でもあります。
「かくて(人類は)どんぐりを嫌い始めてきた。かくて、草や木の葉をうずたかく敷いたあの(古い)寝床は見捨てられるに至った。野獣の皮もまた蔑まれるようになった。
皮は、思うに、発見されたその頃ははなはだしい羨望を起こさせ、そのために初めてこれを着た者は、謀られて殺されるほどだったに違いなく、そのくせ皮は彼ら同志の間で多くの血を流して(奪い合い)引き裂かれて失われ、有益に使用され得なかったに違いない。したがって当事皮は、ちょうど今黄金や銀が人間の生活を心労を持って苦しめ、戦いをもって疲れさせているのと同じことをさせていたものであった。
してみれば、思うに、罪はいよいよ我々(人間)自身の方にあるだろう。すなわち、皮がなければ、寒さが裸でいた大地の子(原始人)を苦しめたことは事実であるが、しかしこの我々の場合には、身を守り得る平民の服さえあれば、紫に染めた高官の衣服も、金や大柄の模様をつけた衣服は、これをお欠くとも一向苦痛とはならないはずだからである。
であるから、人類は絶えずいたずらにまた無益に苦しみ、空疎な心労に生命を費やしているが、明らかにその理由は所有するということにはいかなる限度があるかを知らず、また真の快楽はいかなる程度まで増大しうるかの範囲にまったく無知であるがためである。そしてこの無知こそ、徐々に生命を深い海の中へ持ち出し、戦いの大波を底からかきたててきたところのものである。
しかし、太陽と月とは眠ることなく、宇宙の壮大なる、回転する天界に、自身の光を四方へ放って、人間どもにじゅうぶん教えこんだことは、一年の季節なるものは回ってくるものだということ、また諸現象はある一定の法則と、ある一定の順序とによって行なわれるものだ、ということであった。
やがて人間が堅固な塔をめぐらして生活を営むようになり、土地は分割され、分配されて耕され、あらゆる海は帆で走る船に満ち、やがて盟約を結んで味方と同盟国とをもつようになるや、詩人は功績を詩に歌って伝え始めるに至った。
また、文字が発明されたのは、さして古いことではない。このために、我々の時代は前の時代に起こったことを振り返って知ることができない、前時代の跡を示してくれる方法がないかぎり。
船、耕作、城壁、法律、武器、道路、衣服、その他この種のもの、人生の賜物、および人生のあらゆる奢侈一切、詩歌、絵画、さては精巧な立像をつくること、これらは実地と活発な精神の経験とが、一歩一歩と進歩をたどる人類に、徐々に教えてきたものである。
かくして、時は一々のものを徐々に出現させてくれ、理知がこれを光明世界へ現わしてくれた。なぜといえば、次から次へと別なものが順を追って明らかになってきたに違いなく、結局、学問技術の絶頂に到達するに至ったからである。」
上に引用した箇所とウェルギリウスの『農耕詩』第一巻の表現の関連がしばしば指摘されます。
物の本質について (岩波文庫 青 605-1)
ルクレーティウス 樋口 勝彦