はかなきは人の世の営み

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『ギリシア人・ローマ人のことば』(岩波ジュニア新書、中務哲郎・大西英文著)の中に、 「はかなきは人の世の営み、悲運は涙さそいて、胸をうつ」(『アエネーイス』)という言葉が紹介されています。

原文は、sunt lacrimae rerum et mentem mortalia tangunt.(aen.1.462)で、直訳すると「出来事に対する(=rerum)涙(=lacrimae)がある。人間の営みは(=mortalia)心に(=mentem)ふれる(=tangunt)。」です。

さて、rerumはresの複数・属格ですが、resの適切な訳語は思い浮かびません。「物、事」という意味もありますが、ここは「歴史」というニュアンスがあると思われます。lacrimae rerum(ラクリマエ・レールム)とは「歴史に対する涙」という意味になり、ここに『アエネーイス』の主題の一つが示されているように感じられます。

『ギリシア人・ローマ人のことば』の解説を紹介します。

「この作品にはまた、これと相通ずる、もう一つの通奏低音が流れていることも見逃せません。それは、ホメロスもまた「涙多き」と形容した「戦(いくさ)」を頂点とする人の世の営み—歴史—の流れのなかに、はかなくも消えていった者たちにたいする共感あるいは愛惜(あいせき)の念のようなもの、といえばよいでしょうか。祖国トロイアの落城を描いた絵を見て、涙しながらアエネアスが語った「はかなきは人の世の営み・・・」という標題の一句に、そのパトス(情感)が凝縮されているかのようです。」

未知の土地カルタゴに流れつき、そこで自分たちトロイア人の悲劇を題材とした絵を見た主人公は部下に向かって「恐れをとり除け。ここに描かれた誉れは何らかの救済をもたらすだろう。」と語ります。(地球人が宇宙の星にたどりつき、そこで地球の出来事を主題とした絵を発見した心境を想像してください。しかもその絵の主人公が自分であると。)この場面に関して、原文では次のような表現が続きます。

sic ait, atque animum pictura pascit inani
multa gemens, largoque umectat flumine voltum.(464-5)
(アエネアスはこのように語り、心を「空虚な絵」で満たし、大いに詠嘆しながら、あふれる涙で頬を濡らした。)

トロイア戦争を主題とした絵は実体のないもの(inanis:実際の戦争とは異なるもの)であっても、アエネアスの心をたしかに満たしました(pascit=feed)。話は少し飛躍しますが、しばしば「虚学」とよばれる文学についても、「空虚な絵」と同様に人の世の営みを題材とすることで、人間の心を満たし、活力と勇気を与え、感動させる力を持ち得るものと思われます。

人の世の営み、すなわち歴史を描く文学、そして絵画、いな芸術全般。食事が肉体を養うように、芸術作品は心を養います。芸術を inanis(空虚)なものと退ける世の中においては、逆説的に心の空虚な人間が増える定めかもしれません。

文法解説

sunt lacrimae rerum et mentem mortalia tangunt.(aen.1.462)について。
sunt は動詞 sum の現在・複数・3人称。主語は lacrimae (涙)。
rerum は第5変化動詞 res (物、事、出来事、歴史)の複数・属格で lacrimae にかかる。
mentem は「心、精神」を意味する第3変化名詞 mens の単数・対格。tangunt の目的語。
mortalia は第3変化形容詞 mortalis (人間の)の中性・複数・主格。ここでは「人間の(ことがら)」という意味で使われ、名詞扱いされている。
tangunt は「ふれる」を意味する第3変化動詞 tango の現在・3人称・複数。主語は mortalia である。
直訳は、「(人間の)出来事への涙がある。人間の営み(mortalia)は心にふれる。」
sic ait, atque animum pictura pascit inani
multa gemens, largoque umectat flumine voltum.(464-5)について。
<1行目>
sic は「そのように」。
ait は「言う」を意味する不完全動詞 aio (アーイオー)の現在・単数・3人称。主語はアエネアス。
atque は「そして」。
animum は「心」を意味する第二変化名詞 animus の単数・対格。pascit の目的語。
pictura (ピクトゥーラー)は「絵」を意味する第一変化名詞 pictura の単数・奪格。
pascit は「育てる、養う」を意味する第3変化動詞 pasco の現在・3人称・単数。主語は pictura 。
inani は「虚しい、空虚な」を意味する第3変化形容詞 inanis の女性・単数・奪格。pictura にかかる。
1行目を直訳すると、「そのように彼は言う、そして、心を虚しい絵によって、養う。」
<2行目>
multa (ムルタ)は、「多くの」を意味する第一・第二変化形容詞 multus の中性・複数・対格。gemens の目的語。
gemens は「嘆く、うめく」を意味する第三変化動詞 gemo の現在分詞・男性・単数・主格。
largoque は largo + -que と分解できる。-que は単語の後ろについて「そして」の意味を表す。largo は「たくさんの」を意味する第一・第二変化形容詞 largus の中性・単数・奪格。flumine にかかる。
umectat は「ぬらす、うるおす」を意味する第一変化動詞 umecto の現在・単数・3人称。主語はアエネアス(言葉としては省略されている)。
flumine は「流れ」を意味する中性・第三変化名詞 flumen (フルーメン)の単数・奪格。
voltum は「顔」を意味する男性・第四変化名詞 voltus (vultus のつづりもある)の単数・対格。umectat の目的語。
2行目を直訳すると、「多くの事柄を(「おおいに」と副詞的にも訳せる)嘆きながら、(アエネアスは)たくさんの(涙の)流れによって、顔をぬらす。」

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この記事を書いた人

ラテン語愛好家。京都大学助手、京都工芸繊維大学助教授を経て、現在学校法人北白川学園理事長。北白川幼稚園園長。私塾「山の学校」代表。FF8その他ラテン語の訳詩、西洋古典文学の翻訳。キケロー「神々の本性について」、プラウトゥス「カシナ」、テレンティウス「兄弟」、ネポス「英雄伝」等。単著に「ローマ人の名言88」(牧野出版)、「しっかり学ぶ初級ラテン語」、「ラテン語を読む─キケロー「スキーピオーの夢」」(ベレ出版)、「お山の幼稚園で育つ」(世界思想社)。

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