アイスキュロスの『縛られたプロメテウス』の中に出てくる言葉です。プロメテウス(先に知る男)は天上から火を盗み、それを人間に与えたため、ゼウスに罰せられます。劇の中で、プロメテウスは、「人間どものみじめな様子」を哀れに思い、様々な技術を人間に授けたこと、彼らが「どんなに前は幼稚であったか」について、次のように述べています。
「彼ら(人間)はもともと、何かを見ても、ただいたずらに見るばかり、聞いてもさとるわけでなく、さながら夢の世界の幻のよう、命の限りを、ゆきあたりばったりに過ごしていった、また温かい煉瓦造りの家とても、材木の仕立てようとて知らずにいて、ちっぽけな蟻どものよう、地面の下の日も当らぬ洞穴の奥どに住まいしていた。
彼らにとってはあらしの冬も、花咲き匂う春の日も、また実りたわわな夏の日を見分ける定かなしるしとてもなく、ただ無考えに、なにもかもやっていたのだ、私が星辰の昇る時刻や、見分けとてもつけがたい、その没(い)る時刻を教えてやるまで。
ことにまた、気のきいた工夫の中でもいちばんの、数というもの、それも私が彼らのために見つけたものだ、またムーサの母なるまめやかな働き女、万象の記憶をとどめる文字を書きまた綴るわざも。
あるいは野生の獣を捉らえてつなぎ、くびきについて、働くようにも私が最初にしてやったのだ、人間たちの大変な骨折りを代わってやるよう。
また富貴を極める者の豪奢な荘厳にもと、馬どもを手綱にならして車につけた。白帆の翼に海上を翔(か)ける、船頭たちの乗り物を造ったのも、私にほかならない。」(呉茂一訳)
すなわち、プロメテウス自身の言葉を借りて要約すれば、「人間どものもつ技術(文化)はすべてプロメテウスの贈物だと思ったがいい。」
しかし、これもプロメテウスが認めているように、「技術というのは、必然(の定め)に比すれば、はるかに力が弱いものだ。」という認識も示されます。
ゼウスによるプロメテウスに対する仕返しとしては、ヘシオドスの「パンドラの瓶(かめ)」の話(『仕事と日』参照)が有名です。
また、人間の技術の誕生と発展というモチーフに関しては、ローマの詩人、とくにルクレーティウス(『事物の本性について』第五巻エピローグ)とウェルギリウス(『農耕詩』第1巻)、ホラーティウスにおいて、それぞれ異なる文脈の中で重要な意義をもちます。