西洋古典

厳格で非情な死の定め:ルクレーティウスとウェルギリウス

2015年1月21日

optima quaeque dies miseris mortalibus aeui
prima fugit; subeunt morbi tristisque senectus
et labor, et durae rapit inclementia mortis.
「哀れな死すべき生き物にとって、各々の最良の日々は
いち早く逃げ去る。病気と悲しい老年と苦しみが後に続き、
厳格で非情な死の定めが(生を)奪い去る。」 (ウェルギリウス『農耕詩』3.66-68)

ウェルギリウスの『農耕詩』第3巻は、家畜の飼育を主題としています。その初めのあたりで、詩人は上のように述べています。「厳格で非情な死の定め(直訳は、「厳しい死の非情さ」)が(生を)奪い去る。」という表現 は、個々の生が、いつかは滅ぶ定めにある点に光を当てています。 注目したいことは、この表現に続けて、次のように語られる点です。

semper erunt quarum mutari corpora malis:
semper enim refice ac, ne post amissa requiras,
ante ueni et subolem armento sortire quotannis.
「ところでその体を取り換えたいと思うものが常にあるだろうが、
もちろんいつも取り換えなければならない。そして後で失ったも
のを嘆くことのないように、毎年群れのために新しい品種をあら
かじめ選ばなければならない。」(『農耕詩』3.69-71)

ここでは、トーンが一転し、個々の家畜の命が はかないことを嘆くのではなく、群れ全体の「永続性」を問題にしています。そのため淘汰の技術をいかに成立させるかに詩人の関心は向けられます。

上の6行の表現には、家畜の生命をめぐる2つの対照的な見方が凝縮して描かれていますが、このコントラストには、詩人のどのような意図が読みとれるでしょうか。

1つの手がかりは、ルクレーティウスの死生観との関連を考えることによって得られます。ウェルギリウスは、第2巻エピローグのいわゆる「農耕賛歌」(2.458-542)の中で、ルクレーティウスの自然観と幸福観に言及し、「事物の因果関係を理解し、すべての恐怖と、祈りを聞き入れない運命と、貪欲なアケロン(地獄)の 喧噪とを足下に踏み敷くことのできた者は幸いである。」(2.490-492)と述べています 。

ルクレーティウスは、『物の本質について』(De Rerum Natura)第1巻262-264で、ある物の死から別の物の誕生を生み出す自然(natura )の営みについて、(エピクロスの)原子論の立場から説明しています。

haud igitur penitus pereunt quaecumque videntur,
quando alit ex alio reficit natura nec ullam
rem gigni patitur nisi morte adiuta aliena.

それゆえ、物は死滅するかに見えて、完全に死滅することはない。
自然が物を養うさいには、他の物から作り直すのであり、いかなる物も
他の死によって補われることのないかぎり、誕生することは許されない。

この考えを根拠にして、ルクレーティウスは死の恐怖が無意味なことを説いていきます(自分の心身を形成している原子は死とともに分解され、新たな生の誕生に用いられるため、「恐れるべき死後」を経験する自分は存在しない)。一方、ウェルギリウスの示す淘汰の技術(ars)も、基本的には「死は(新たな)生の始まり」という死生観を反映すると考えられます。

逆に、ルクレーティウスが批判した「死は生の終わり」とみる考え(こう考えることで人々は、死の恐怖に苦しめられる)は、「厳格で非情な死の定めが(生を)奪い去る。」とみなす考え方と同じです。つまり、冒頭で見たウェルギリウスによる家畜の飼育の記述は、一方において、家畜の淘汰を行う技術について物語るとともに、他方では、死生観をめぐるルクレーティウスの批判を色濃く反映していることがうかがわれます。

ルクレーティウスは理性(ratio)が死の恐怖を追放すると考えるのに対し、ウェルギリウスは技術(ars)が(家畜の飼育者の)それを可能にすることを印象付けています。

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