「デーシネ・ファータ・デウム・フレクティー・スペーラーレ・プレカンドー」と読みます。
dēsine は「やめる」を意味する第3変化動詞 dēsinō,-ere の命令法・能動態・現在、2人称単数です。
fāta は「運命」を意味する第2変化名詞 fātum,-ī n.の複数・対格で、flectī の意味上の主語となります(「対格不定法」)。
deum は「神」を意味する第2変化名詞 deus,-ī m. の複数・属格 deōrum の別形です。fāta にかかります。
flectī は「変える、動かす」を意味する第3変化動詞 flectō,-ere の不定法・受動態・現在です。「変えられること」となります。
spērāre は「希望する」を意味する第1変化動詞 spērō の不定法・能動態・現在です。
precandō は「懇願する」を意味する第1変化の形式受動態動詞 precor,-ārī の動名詞precandumの奪格です。「懇願することによって」と訳せます。
「懇願することによって、神々の運命が変えられる(動かされる)ことを希望するな」という意味になります。
ウェルギリウスの『アエネーイス』に見られる言葉です(Aen.6.376)。
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コメント
コメント一覧 (3件)
こんにちは。
宮崎と申します。
質問させてください。この文章のdeumをprecandoと結びつく単数,対格と捉えて、”神に懇願することによって”のように訳出することは文法的に間違っているのでしょうか。
お暇な時にどなたかお返事頂ければ幸いです。
山下です。
その解釈は十分可能ですし、文法的に無理はありません。ただし一般にはdeumを属格ととる解釈が主流です。fata deumをひとまとまりにとらえるほうがより自然に見えるためか、あるいはfata単独よりfata deumとし、deumでfataを修飾することで意味の強調が図られているためか、あるいは別のなにか理由からか。。。
別解として、テクストに現れるdeumは属格であると同時に、precandoの目的語である、ととることもできるそうです(ちょっとトリッキーですが)。デウムという音の響きが一行を読むあいだは読者(or聞き手)の耳に残る、という前提です。つまり、一方ではdeorumの代用としてfataにかかると読者(or聞き手)に理解させ、他方でその響きの消えないうちにpredandoの目的語としての務めを果たす、と。deorumだとこうはいかないわけで、詩人はうまい手を使ったと感心します(deumの選択は「韻律の都合」(metri causa)と普通は説明されますが)。
宮崎です。
さまざまな解釈が可能なのですね。属格とした場合の”神々の運命”という意味がいまいちピンと来なかったのですが、意味の強調という可能性を教えて頂き、腑に落ちました。神々自身の運命ではなくて、人間の運命であり、そこに神々の(支配している)を挟むことで、運命を強調しているということですね。
詳しく説明してくださり、ありがとうございました。