言葉
「物言えば唇寒し秋の風」(松尾芭蕉)
何か言葉を口にすると、はからずも他人を傷つけることがある。物を言うことはとかく難しい。ラテン語にも、「言葉と武器は傷つける(Et arma et verba vulnerant.)」という格言がある。だが、この俳句の本来の意味は別のところにある。芭蕉はこの俳句の前で次のように述べている。
「ひとの短を言うことなかれ。おのれの長をとくことなかれ 」。
調子に乗って他人を批判したり、己の自慢をしたりすると、唇が何となく寒々しい感じになる。冒頭の俳句は、警句というよりも、人間の浅はかな一面を鋭くえぐり取った表現のように思う。
「口は災いの元」に相当する英語表現に、Out of the mouth comes evil. というのがある。ヘシオドス も「言葉の慎みより尊い宝はこの世にない」と戒めた。では、災いを避けるために、口を貝のように閉ざせばよいのかというと、無論そういうわけでもない。「文は人なり」という言葉があるが、「言葉は人なり」である。言葉は心の内面を他人に見せる鏡ともなる。心の自由な言葉を失うことは、アイデンティティ・クライシス(identity crisis)を招くだろう。
このことから連想されるのが、ギリシア神話に出てくる妖精エコー(Echo)――カラオケでおなじみのエコー(echo)の語源――にまつわる悲劇である 。彼女は、持ち前のおしゃべり好きが災いし、ゼウスの妻ヘラの怒りを買った 。その結果、罰として自分の言葉を発することを禁じられた(ただし、相手の話の終わりをそのまま繰り返すことは許された)。
エコーは、森の中をさまよう美青年ナルキッソス(Narcissus)――ナルシスト(narcist)の語源――に恋をしたが、せっかく二人だけで話をするチャンスが訪れたのに、彼女は自分の胸の内を伝えることができず、ナルキッソスに対しては彼の不遜な言葉の最後を繰り返すのみであった。エコーは悲しみのあまり憔悴し、ついには森の奥に潜む声の響きだけの存在(=木霊)となったという。
エコーに許されたのは相手の言葉のオウム返しであったが、彼女の悲劇は、「自分の言葉」を失った者の苦悩を伝えてやまない。言葉を自由に操ることは、かくも人間にとって貴重なものであり 、キケローによれば、言葉ほど真の人間性(humanitas)に固有のものはないといわれる 。「というのも、互いに言葉を交わし、感じたこと、思ったことを言論によって表現できるという、まさにその一点こそ、われわれ人間が獣にまさる最大の点だからである」と 。
むろん、言葉の自由は言葉の放埒ととり違えられてはならないだろう。自由とは喜びであると同時に責任でもある。ゆえに、どの国においても教育の基礎に言語教育を据え、国語力の鍛錬に努めるのである。だが、我が国において、若者の国語力は十分に教育されているだろうか。このことについて、司馬遼太郎氏は次のような警鐘を鳴らしている。
国語力は、家庭と学校で養われる。国語力にとっての二つの大きな畑といってよく、あとは読書と交友がある。国語力を養う基本は、いかなる場合でも、「文章語にして語れ」ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境(つまり単語のやり取りだけで意志が通じあう環境)では、国語力は育たない。ふつう、生活用語は四、五百語だといわれる。その気になれば、生涯、四、五百語で、それも単語のやりとりだけですごすことができる。ただ、そういう場合、その人の精神生活は、遠い狩猟・採集の時代とすこしもかわらないのである。
言語によって感動することもなく、言語によって英知を触発されることもなく、言語によって人間以上の超越世界を感じることもなく、言語によって知的高揚を感ずることもなく、言語によって愛を感ずることもない。まして言語によって古今東西の古人と語らうこともない。ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、何をいっているかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。(「何よりも国語」より)
友達とのおしゃべりには夢中になるが、文章語にして自分の考えを表現することは苦手である、あるいは肝心の国語教育の時間において、先生の示した「正解」を生徒がせっせとノートに書き写すだけで自分の感動や知的高揚を文章に表す機会が与えられないのなら、冒頭に挙げたエコーの悲劇は我々にとって他人のものとは思われない。