ありのままに生きる

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ありのままに生きる

「自分の思うように生きる」とか、「ありのままに生きる」とはどういう意味だろうか。それは「自分勝手に生きる」ということで、よくない生き方なのだろうか。思いつきで、今日からでも実行できる生き方なのだろうか。いや、そんなことはない。「自分の思うように生きる」態度こそ、古来哲学者が望んでやまない自由の境地であったはずだ。孔子は、七〇歳になってようやく、「心の赴くままに生きても度を越さぬようになった」と述懐している 。

たとえば、子どもはありのままに生きている見本かもしれない。好きなことを好きなときに、好きなようにできるのが子どもの特権かもしれない。ローマ人は、子どもたちのことを「自由な者たち」(liberi)と称した。大人は、そのような子どもの自由な態度に学ぶべきだとすれば、まさにワーズワースの表現したとおり、The child is father of the man.(子どもは大人の父親) といえるだろう。

では、私たちの普段の生活はどうなっているのか、と問うと、わたしたち大人は、好きでもないことを決められたときに、決められた仕方で行動するように強いられているように見える。「いや違う!」と言う人も中にはいるだろう。だが、大なり小なり多くの人はこれを否定できないのではないだろうか。しかし、これは「大人なのだから仕方ない」の一言で片づけていいものとは思われない。

たとえば、「どうして私たちは子供のように行動しないのだろう?」と問うと、「そのほうが都合がいいから」という答えが思いつく。実は、自分の思いを押し殺して生きた方が、ありのままに生きるよりはるかに楽であり安全なのである。つまり、他人の指示通り行動した方が、親や教師といった立場の人ににらまれないばかりか、素直でお利口だとレッテルを貼ってもらえたりするのではないだろうか。また、友人関係においても、自分流が過ぎると、集団生活の中では浮いてしまう危険があるのではないだろうか。つまり、今の社会では、「出る杭は打たれる」という懸念がある。

しかし、私は「安全」というメリットは認めながらも、自分のためにあえて「ありのままに生きる」ことを選びたい。自分流は不確実であって、困難も多いけれども、文句なく「楽しい」と思われるからである。例えば、授業のことを例に出すと、黒板に書いてあることをノートにせっせと写すより、わからないこと、ふに落ちないことを明確にしたり、先生に積極的に議論を挑む方がやっていて楽しい。教える方も、毎年同じ講義ノートを棒読みするのは「安全」かつ「安心」であるけれど、毎回話すネタをあれこれ思案する方が楽しい。

一般に、自分の判断に従って行動する限り、その失敗に対し責任をとる覚悟はできている。言われた通り行動して批判されたら、「マニュアルに書いてあります」とか「マニュアル通りちゃんとやりました」と責任転嫁することを覚えるだけだろう。マニュアル通り行動する限り、ひいては、「自分はなぜ生きているのか?」という問いの答えも曖昧になっていくのではないだろうか。

でも、これだけは確かである。「ありのまま生きる」ということは、気楽なこと、お手軽なことではない。子どもはいつだって真剣で、暇つぶし に遊んでいるのではないということ。あくびをしながら「夢中になる」なんてことは絶対ない。

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この記事を書いた人

ラテン語愛好家。京都大学助手、京都工芸繊維大学助教授を経て、現在学校法人北白川学園理事長。北白川幼稚園園長。私塾「山の学校」代表。FF8その他ラテン語の訳詩、西洋古典文学の翻訳。キケロー「神々の本性について」、プラウトゥス「カシナ」、テレンティウス「兄弟」、ネポス「英雄伝」等。単著に「ローマ人の名言88」(牧野出版)、「しっかり学ぶ初級ラテン語」、「ラテン語を読む─キケロー「スキーピオーの夢」」(ベレ出版)、「お山の幼稚園で育つ」(世界思想社)。

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