比較

  • URLをコピーしました!

比較

「比較」を意味する英語は compare であるが、この言葉にはラテン語 par (パール)の名残が認められる。par とは、ゴルフの「パー」(規定打数に「等しい」の意)のことであり、「等しい」という意味を持つ。つまり、英語のcompare には「等しくする」というニュアンスが込められている。

では、「比較する」ことと「等しくする」ことは、どこで、どのようにつながるのか?

例えば、A さんと B さんの身長を「比較する」というとき、われわれは両者の性別、年齢、風邪を引いているかどうかなど、身長以外の条件はいっさい考慮に入れない。身長の「比較」を行う際、両者の身長以外の条件は「等しくする」、すなわち「すべて等しいものとみなす」必要がある。このことは、言い換えれば、比べたい条件以外のすべてを「無視する」ことでもある。

動物と異なり、人間が高度の文明社会を築くためには、何かと何かを計量的に「比較する」営みが不可避であるが、この手続きを人間の幸せの尺度として用いるなら、それは誤りである。

たとえば、われわれが誰かと誰かを「比較する」というとき、それは無意識のうちに個人のかけがえのない価値を無視することにつながりかねない。親は自分の子を他人の子と「比較」したがるが、そのことが子供の自尊心を傷つけることに気づかない。

成績の「相対評価」というのは、他との「比較」において成り立つ評価のことである 。これに対し、「絶対評価」における「絶対」――英語では absolute――とは、「他との比較を断ち切っている」というニュアンスをもつ。

たとえば、親の子への愛は「絶対的」なものであり、他の子と比べ、自分の子はこの点がこれだけ優れているから愛す、というものではけっしてない。言い換えれば、愛は数量化できないということである。

人間が単純に物事の「比較」に熱心になるとき、本当に大切なものを見失う可能性が増えていく。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

ラテン語愛好家。京都大学助手、京都工芸繊維大学助教授を経て、現在学校法人北白川学園理事長。北白川幼稚園園長。私塾「山の学校」代表。FF8その他ラテン語の訳詩、西洋古典文学の翻訳。キケロー「神々の本性について」、プラウトゥス「カシナ」、テレンティウス「兄弟」、ネポス「英雄伝」等。単著に「ローマ人の名言88」(牧野出版)、「しっかり学ぶ初級ラテン語」、「ラテン語を読む─キケロー「スキーピオーの夢」」(ベレ出版)、「お山の幼稚園で育つ」(世界思想社)。

目次