時間
時間に関する格言、警句は古来たくさんある。中でも「時間を大切にせよ」というメッセージがとりわけ多い。漢文では「少年老い易く、学成り難し。一寸の光陰、軽んずべからず」というのが有名である。英語では、Time flies like an arrow. (光陰矢のごとし)、Time is money. (時は金なり)、Time and tide wait for no man.(歳月人を待たず)などがある。もっとも、「時は金なり」を合言葉に、寸暇を惜しんで働くだけでは、かえって自分の人生をやせほそったものにし、ひいては時間を粗末に扱う結果も招きかねない。
ミヒャエル・エンデ の『モモ』を読むと、Time is money. とちまなこ血眼になるのは灰色の紳士であり、時間泥棒の立場ということになる。むしろ、時間とは人生そのもの、命そのものであり、「生きられた」時間の深浅をこそ問題にすべし 、というメッセージがこの作品からは聞こえてくる。実際、人生の至福の瞬間は、Time stood still. (時が止まった)と感じられるのが常であり、その長短を時計で計測されることを拒むものである 。
時間を計測する「腕時計」は英語で watch というが、この言葉は同時に「見張り」という意味をもつ 。文明国の大人は腕時計を見て暮らすのが当たり前になっているが、比喩的に言えば、時計(ウォッチ)という監視役に睨まれながら生きていることになろう。たしかに、Time is money の考えに立つとき、時計は不可欠であるが、一方で美しい音楽に魅了されるとき、あるいは親しい友人と夢中になって話し込むとき、またはアルバムを広げて過去の思い出に耽るとき、われわれは時間のたつのを忘れる。つまり、腕時計を必要としない時間というのは確かにある。
このように時間と人間との関わりについて考えるとき、日本語であれば「一期一会」という言葉を思い出す人も少なくないだろう。この言葉をつぶやくとき、「人生は一度限り。人との出会いも一度限り」という認識を新たにすることができる。過ぎ去った時間は二度と戻らない、ゆえに、今この瞬間、この人との出会いはかけがえのない価値をもつ、と。
一方、「カルペ・ディエム」(carpe diem.)というラテン語は、今挙げた「一期一会」ととともに引用されることが少なくない。元々は恋愛をモチーフとしたホラーティウスの詩 に見られる言葉である。
どんな文脈で使われているのか知っていただくため、訳をご紹介しよう。
神々がどんな死を僕や君にお与えになるのか、
レウコノエ、そんなことを尋ねてはいけない。
それを知ることは、神の道に背くことだから。
君はまた、バビュロンの数占いにも手を出してはいけない。
死がどのようなものであれ、それを進んで受け入れる方がどんなにかいいだろう。
かりにユピテルが、これから僕らに何度も冬を迎えさせてくれるにせよ、
或いは逆に、立ちはだかる岩をものともせず、
テュッレニア海を疲弊させている今年の冬が最後の冬になるにせよ。
だから君には賢明であってほしい。
酒を漉(こ)し、短い人生の中で遠大な希望を抱くことは慎もう。
なぜなら、僕らがこんなおしゃべりをしている間にも、
意地悪な「時」は足早に逃げていってしまうのだから。
今日一日の花を摘みとることだ(カルペ・ディエム)。
明日が来るなんて、ちっともあてにはできないのだから。
この詩には、若さが死の恐怖を吹き飛ばすような力強さが感じられる。その中で語られる「カルペ・ディエム」という言葉のニュアンスについては、原文を直訳することで、日本語の「一期一会」とは別のイメージが沸くことと思う。
まず「カルペ(carpe)」というラテン語は、基本的に英語でpluck (摘む)という意味をもつため、目的語に「花」(flores) がくることが多い。「カルペ(carpe)」は命令法なので、この言葉を目にすると、読者は瞬時に目的語が何の花なのか、想像を巡らせる。だが、目的語は「ディエム (日)」であって、「フローレース (花)」ではない。
つまり、「一日」と「花」がイメージの上で重なり合うことで、「一日を花とみたてて生きよ」というメッセージの背景が視覚的に用意される。一日一日を生きる我々は、さながら花畑で花を摘む者であるかのようだ。人生に何らかの目的を設定し、努力してそれを克服することは素晴らしい。しかし、「カルペ・ディエム」は我々に努力や忍耐を促すのではなく、むしろ人生の美しさそのものを味わうよう誘う言葉であると感じられる。
引用した詩句の中に、「君には賢明であってほしい」という言葉がある。これは、ホラーティウスの親しんだエピクロス哲学を反映しているといわれる。ギリシアの哲学者エピクロスは快楽主義の祖とされるが 、彼の説いた「快楽」とは、けっして刹那的で享楽的な快楽を意味するのではない。一言で言えば、日本語の「知足」や「清貧」といった言葉にこめられた「わずかなものに満足を知る心」に幸福の原点を見た。
この考えとからめて「カルペ・ディエム」の意味を再び問うなら、ホラーティウスは「人生の長い、短いに執着するな。かりに今日一日しか生きられないとしても、この世に生まれてよかったと満足できる生き方を選ぶがよい」と述べているようにも感じられる。