コミュニケーション

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コミュニケーション

インターネット・コミュニケーションを特徴づけるのは、画一性(uniformity)でなく多様性(diversity)である。これに対し、従来支配的なコミュニケーションのスタイルは、いわずと知れたマス・コミュニケーション(=mass communication)である。「マス」とはギリシア語で「大麦のケーキ」を意味する「マーザ」が語源であるが、大きな固まりというイメージが一人歩きを始め、やがて英語のmass(大衆の)にたどりついた。これに対し、individual(個人)の語は、「これ以上二つに分けられない」という意味を内包している。いわば「マス」の反対概念を表す言葉である。

我々は、知らず知らずのうちに、他人の作った「先入観」(prejudice)を受け入れがちである。「みんなが行くから、大学に行かなければならない」と思ったり、「みんなが言うから、英語やコンピュータが大事」に思えたりする。しかし、厳密に考えれば、大学が大事と言うよりも、大学で「自分が」何を学ぶかが大事なのであり、また英語やコンピュータが大事というよりも、「自分が」英語やコンピュータでいかなるコミュニケーションを行うかが、重要な意味をもつはずである。「よらば大樹の陰」という言葉があるが、マス・コミュニケーションに親しむにつれ、「みんなの意見」(すなわちmajority (大多数)の意見)には従わねばならないという強迫観念を植え付けられる可能性が強まる。

一方、「出るくいは打たれる」という言葉における「出るくい」とは、まさにminority (少数)の意見と言い換えることもできそうに思われる。しかし、個人の意見はけっして少数派(minority)の意見と呼ぶべきものではない。「多数」であれ「少数」であれ、同じ意見が複数存在するという考えを前提とした言葉遣いである。しかし、「個人の(individual)」意見とは文字通り「一人の」意見に他ならず、100人いれば100通りの「個人の」意見が存在する。

そもそも「コミュニケーション」とは、どのような意味を持つ言葉なのか。元々は「他人と分かち合う」を意味するラテン語のcommunicatio(コンムーニカーティオー)が語源である。実際、インターネット・コミュニケーションにおいて、我々はごく自然な形で、「自分の」意見を他人に伝え、他人からその考えを聞くというやりとり(=情報の共有化)を重ねていく。この過程に参加することで、他人の真似でない自分の考えが、本来どのようなものであるかを知ることができる。

インターネットという新しいコミュニケーション・スタイルが市民権を得るに連れ、これからの時代は、何が大切なのかという問題がしばしば議論される。これからの時代「も」大切なものはなにか、と問い直した方がよいのだろう。私はこの問いに対し「人と人のコミュニケーション」と答えたい。従来のピラミッド型社会において、個人間のコミュニケーションは十分機能してきたとは思えない。

他人とのコミュニケーションを大切にすることは、自分の固有の価値(uniqueness)を再認識することにつながる。「みんなの意見」に従う癖がつくと、「自分が何者なのか」がわからなくなるし、ひいては生きる意味も不鮮明になる。デルポイの神託(古代ギリシアにおける神のお告げ)として、「汝みずからを知れ 」という言葉が今に伝わる。この言葉の真意を、今一度インターネット・コミュニケーションとの関連でかみしめたい。

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この記事を書いた人

ラテン語愛好家。京都大学助手、京都工芸繊維大学助教授を経て、現在学校法人北白川学園理事長。北白川幼稚園園長。私塾「山の学校」代表。FF8その他ラテン語の訳詩、西洋古典文学の翻訳。キケロー「神々の本性について」、プラウトゥス「カシナ」、テレンティウス「兄弟」、ネポス「英雄伝」等。単著に「ローマ人の名言88」(牧野出版)、「しっかり学ぶ初級ラテン語」、「ラテン語を読む─キケロー「スキーピオーの夢」」(ベレ出版)、「お山の幼稚園で育つ」(世界思想社)。

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