ニューヨークってどういう意味?
司馬遼太郎氏は、中学校時代、英語が嫌いであった。授業中に「ニューヨークとはどういう意味ですか?」と先生に質問したら、「地名に意味はあるもんか!」と叱られたからだとか。
司馬氏は、「New York =ニューヨーク」といった単なる言葉の言い換えではなく、ニューヨークを「新しいヨーク」と訳して初めて気づく言葉の歴史に興味を持ち、右の質問をしたのだと思われる。図書館に足を運び、この地名の由来を調べていくうちに司馬氏は確信する。「知識は教師に与えられるものではなく、自分で調べて獲得するものだ」と。
辞書を引けば、それまでニューアムステルダム(New Amsterdam)と呼ばれた地名が、一六六四年にニューヨークと改称されたことがわかる。また、ヨーク公にちなんだ名前ということも書いてある。こうなると、イギリスとオランダの覇権争いに加え、名誉革命(一六八八年)との関連も調べたくなってくる。
言葉は時代を映す鏡であるといわれる。言葉の成り立ちや、その本来の意味を探ること、それは言葉の歴史をたずねる旅にほかならない。たとえば、司馬氏がニューヨークの意味を問うたように、「東京とはどういう意味か?」を問う外国の人がいてもおかしくはない。そして、この言葉を「東の京」と分析するとき、その人が明治維新に興味をもつ可能性はじゅうぶんに高いと思われる。
これは、むろん地名に限った話ではない。なにげなく見聞きしている言葉にも、それぞれに歴史やドラマがある。普段使い慣れている日本語についても、そこに中国語(漢語)の影響を認めることができるのはいうまでもないが、一方において、明治以降に取り入れたヨーロッパの言葉の影響も少なくない。ところが、この種の言葉は、しばしばラテン語、ギリシア語に起源を持つことが多いのである。
たとえば「哲学」という言葉は明治に入って作られたいわば和製漢語であるが、そのルーツはギリシア語の philosophia に遡る。この語は、ピロス(親しい)とソピアー(知恵)に分解できるが、ピロスは「友」という意味を持ち、その動詞形はピレイン、すなわち「愛する」という意味を持つ。したがって、ピロソピアーとは、わかりやすくいえば「知恵を愛すること」となる。
ところで、英語の philosophy という単語は、ギリシア語のつづり(φιλοσοφια)をラテン語に直した形(philosophia)をほぼ原形通り保持していることが明らかである。このように、数多くのギリシア語をラテン語に直し、古代のギリシア文化を現代に伝える基礎をつくったのがローマ人であり、彼らの用いたラテン語抜きには、ヨーロッパの文化や芸術、言葉の歴史は語れない。
言葉の歴史をたずねるとは、今の例だと日本語の「哲学」から英語のフィロソフィーをへて、ギリシア語のピロソピアーに遡ることを意味するが、このとき、私たちは、普段理解しているつもりの身近な言葉(カタカナ言葉、英単語、和製漢語、省略語など)の意味を再考し、ヨーロッパ文化への親しみを深めることができるだろう。
ローマの詩人ホラーティウスは、「征服されたギリシアは征服者ローマを征服した」と歌った。ローマは軍事力によってギリシアを征服したが、逆に文化面ではギリシアの魅力に征服されてしまった、という意味である。ローマ人はその後、ギリシア文化を独自の仕方で継承し発展させたが、その取り組みの一部始終がラテン語によって記録されているのである。
わたしは、英単語の語源を探ることによって、ギリシア文化を敬愛してやまなかった「ローマ人のこころ」にもスポットを当ててみたい。異文化に対する独自の模倣と改変を繰り返す中で、「永遠のローマ」にふさわしい普遍的価値を生み出したローマ人の思想にふれることは、21世紀を迎えた日本の未来を考える上で、有益な示唆を得ることが期待できると思われるからである。