ギリシアの悲劇作家エウリピデスは、『アウリスのイピゲネイア』という作品を残しました。
イピゲネイアは、ギリシア軍を率いるアガメムノンの娘の名です。ギリシア軍はトロイアを攻めるためアウリスに集結しましたが、風が止まり船を出すことができません。
予言者カルカスの言葉では、アガメムノンが狩りをした際、アルテミス(狩りの女神)も自分にはかなわないと豪語したことが原因で、女神の怒りをかったといいます。娘イピゲネイアをアルテミスに犠牲に捧げよ、とも。
王は悩みますが、やむなくアキレウスと結婚させると偽って、娘をミュケナイから呼び寄せます。母クリュタイメストラとともに嬉々として現れた娘に対し、父アガメムノンは真実を語る勇気が出ません。
代わって、下僕に真実を明かされた母と娘は、歓喜の頂点から不幸のどん底に突き落とされます。夫アガメムノンに対し、クリュタイメストラは次のように主張します。
「当事者であるメネラオスが、娘ヘルミオネを犠牲に殺せばよい。不義をした女(メネラオスの妻、ヘレネ)が、娘を連れてスパルタに戻ってきて、幸せに暮らすというのか。他方、あなたに操を立ててきた私は、娘を奪われなければならないのか。」
これに対するアガメムノンの返答は次のようなものです。
「私も人を憐れむことは知っているつもりだ。狂人でもない以上、自分の子が可愛い。こんなことをするのは気がとがめるが、しないでおくのもまた気がとがめるのだ。これは是が非でもしなければならぬ。船を連ねたあの兵士どもを見るがよい。
青銅の武具をつけてヘラス中の国々から集った将軍たち。かれらはイリオン城をめざしているが、予言者カルカスの言うところでは、お前(イピゲネイア)を犠牲にしなければ、船出することもできず、名に聞こえたトロイアの砦(とりで)を攻め落としもできないのだ。ある情熱がヘラスの兵士どもをとらえ、ヘラス中の女どもの掠奪を防ぐためにと、彼らは夷荻の地めざして、早く船出したがっている。もし女神のご託宣を無にするようなことをしては、アルゴスにいる娘たちをはじめ、おまえたちや私まで殺されてしまうだろう。
私はメネラオスの奴隷になったわけではない。またメネラオスのためにここへやってきたのでもない。ヘラスのためには、否が応でも、おまえを殺さなければならないのだ。これは私たちにとって、どうしようもないことなのだ。祖国を解放するためには、おまえも私もできる限りのことをしなければならない。蛮族どもにヘラス人が妻をとられてなろうものか。」
イピゲネイアは死を覚悟し、次のような言葉を残します。
「アルテミスが私の体をお望みなら、死なねばならぬ人間であるこの私が、神さまの邪魔をしていいものでしょうか。それはなりませぬ。私の体はヘラスのために捧げます。贄に捧げて、それでトロイアを討ち滅ぼして下さいまし。それは、私の、永遠までの思い出になることでしょう。
子供たち、結婚、そして名誉が、私のものとなるのです。ヘラスが夷荻を支配することはあっても、夷荻がヘラスを支配することはなりませぬ。お母さま、あちらは奴隷、こちらは自由の民なのです。」
引用文は、ちくま文庫、呉茂一訳を使わせていただきました。