黄金時代がやってくる

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ウェルギリウスによる黄金時代のテーマの受容

ウェルギリウスの『牧歌』第四歌には、「黄金時代が再来する」という考えが示されます(>>「すべての土地がすべてを生むだろう」)。この黄金時代はサトゥルヌス(ギリシア神話のクロノスに相当します)の時代の再来として語られます(第六行「サトゥルヌスの王国がよみがえるだろう」)が、そのビジョンはへシオドスの語る黄金時代を思わせます。

「商人も自分で海から退き、松材の船も商品を交換しなくなるだろう。すべての土地がすべてのものを生み出すであろう。大地が犂に、葡萄の木が大鎌に苦しめられることもなくなろう。今や、たくましい農夫もまた牡牛からくびきをはずすであろう。羊毛は種々の色に染められることもなくなろう。牧場で羊は自分から、あるは美しい赤紫に、あるはサフランの黄色にと、毛の色を変えるだろう。深紅の衣がおのずから草をはむ小羊の飾りとなるだろう。」(38-45)

これに対し、続く『農耕詩』においては、ほかならぬローマにおいて黄金時代が再来する可能性が暗示されています。例えば、第二巻エピローグの「農耕賛歌」においては、次のように言われています(2.513-538)。

「農夫は、ひたすら曲がった鋤で大地を耕す。これぞ年々の労働の場、ここでこそ彼は祖国を支え、幼い孫たちと牝牛の群れと忠実な牡牛を、養い育てていけるのだ。年々は休むことなく、あり余るほどの果実、家畜の仔、穀物の束をつくり出し、その実りは畝に重くのしかかり、やがて納屋に満ち溢れる。(中略)かつて、古のサビーニー人は、かかる生活を営んでいた。これが、レムスとその兄弟の生活だった。かくてこそ、エトルリアは強大になり、ローマは七つの城塞を城壁で一つにつなぎ、世界の驚異になったのだ。いや、ディクテーの王がまだ笏をもたず、神を恐れぬ人間が、牡牛を殺して食らう以前には、黄金のサートゥルヌスが地上に住んで、かかる生活を営んでいた。」

すなわち、家族を守り、仲間と共に労働に精を出す農夫の暮らしが、黄金のサートゥルヌスの時代(ローマ神話においては黄金時代と同一視される)の生活にたとえられています。しかし一方では、ユピテルの治める現実が、むしろ鉄の時代と呼ぶにふさわしいことも詩人は示唆しています(1.505-511)。

「ここでは、正邪の観念が逆転し、世には戦乱が相次ぎ、犯罪は様々な形を取って現れ、誰一人、鋤に対して、払うべき敬意を払わない。農夫が去ったために畑は荒れ果て、曲がった鎌は鋳つぶされて、硬い剣になっている。」

では『農耕詩』において描かれる現実は、果たして鉄の時代なのか、黄金時代なのか。この問題をめぐっては、従来アレゴリカル(寓意的)な説明が行われます。すなわち、この作品の書かれた頃、ローマにおいては長期にわたる内乱が終りを告げ、アウグストゥス帝のもとで、平和で秩序ある理想国家が生まれようとしていました(と一般に記されます)。

この歴史的事実は、五時代説話との関連で言えば、「鉄の時代が終焉し、今まさに黄金時代が到来する」と表現しても差し支えなかったかもしれません。言い換えれば、「国民の勤勉な労働が、争いを鎮め、国家の繁栄、すなわち黄金時代の再来をもたらす原動力となる」とするメッセージが、この作品に織り込まれていると解釈することができるわけです(Johnston等)。

しかし、こう解するとき、この詩は単に国民の労働を奨励するプロパガンダに過ぎないのだろうか、という疑問が残らないわけではありません。

表向きにその面はあったにせよ、詩人はより普遍的なものを見つめていたというのが私の感想です。

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この記事を書いた人

ラテン語愛好家。京都大学助手、京都工芸繊維大学助教授を経て、現在学校法人北白川学園理事長。北白川幼稚園園長。私塾「山の学校」代表。FF8その他ラテン語の訳詩、西洋古典文学の翻訳。キケロー「神々の本性について」、プラウトゥス「カシナ」、テレンティウス「兄弟」、ネポス「英雄伝」等。単著に「ローマ人の名言88」(牧野出版)、「しっかり学ぶ初級ラテン語」、「ラテン語を読む─キケロー「スキーピオーの夢」」(ベレ出版)、「お山の幼稚園で育つ」(世界思想社)。

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