古代ローマの詩人ルクレーティウスは『事物の本性』第3巻(830以下)で次のように述べています。
「精神の本質は死すべきものである、と理解するにいたれば、 死は我々にとって取るに足りないことであり、一向問題ではなくなってくる。(中略)
結合して現在我々というこの一体をなしているこの肉体と魂(アニマ)とが分離をおこして、我々という者がもう存在しなくなる未来においても、たとえ大地が海と混ざり、海が天空と混ざろうとも、我々にとっては(もはや存在していない我々にとっては)まったく何も起こりうるはずはないし、我々の感覚を動かせるはずもないことは明らかである。」
この表現は「死は我々にとって何ものでもない。なぜかと言えば、我々が存する限り、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはや我々は存しないからである。」と述べたエピクルスの言葉を想起させます。別の箇所(894以下)ではこうも言います。
「さらにまた、よく人々のすることであるが、横臥して盃を手に取り、額には花冠をかざしては、心の底からこう言う『哀れな人間にとっては、この楽しみもはかないものだ。たちまち過ぎ去ってしまう。そして後では決して再び呼び戻すことは出来ない。』と。(中略)
『(死んでしまえば)もはや家庭が君を喜び迎えてくれることもなくなるであろうし、一番大切な妻も、かわいい子どもたちも、先を争って駆けつけて接吻をかちえようとすることもなくなるであろうし、君の心に無言の喜びを満たすこともなくなるであろう。
君はもはや、繁栄の中に暮らすことも、君の財産を守ることもできなくなるであろう。かわいそうに』彼らは言う『たった一日の恐ろしい日が、生涯の報いを悉く奪ってしまうのだ』と。
ところがこのことに関連して『これらのものを渇望する念ももはや君を捉えることがなくなるであろう』とまでは言おうとしない。」
ルクレーティウスは結論として「死を避けることは不可能である。」と前置きした上で、次のように述べます。
「未来が我々にいかなる運命をもたらすか、偶然の機会が我々をどのような目に遭わせるか、また、いかなる終局が我々を待ちかまえているかは、わかる筈のものではない。
また、生命を延ばしてみたところで、それによって死の時間を少しも減らすことにもならず、すなわち、我々が死の状態にある間の時を短くすることができるものではない。
であるから、たとえ君の好きなだけ多くの世代を生き抜いて生を全うすることがかりに出来たとしても、依然として永遠の死はその先に待っているだろう。
そして、今日一日で生命を終わった人でも、幾月も幾年も多くの歳月を経て死んだ人よりも、短い時を過ごしたとは言えないだろう。」
「いかなる終局が我々を待ちかまえているかは、わかる筈のものではない。」という考えは、ホラーティウスの有名な詩句「カルペ・ディエム」に反映しているように感じられます。