西洋古典

誰も死ぬまでは幸福ではない

誰も死ぬまでは幸福ではない

この言葉はヘロドトス『歴史』第一巻32に見られるソロンの言葉です。さっそく文脈を紹介しましょう。

リュディア王アリュアッテスの死後、その子クロイソスが35歳で王位を継いだ。彼はアテナイの賢者ソロンに世界でもっとも幸せな人間に会ったかどうか尋ねたところ、自分以外の人間の名を2人も聞くことになる。

第一にソロンの挙げたのはアテナイのテッロス。彼は繁栄した国に生まれて優れたよい子どもに恵まれ、その子らにもまた皆子どもが生まれ、一人も欠けずにいた。味方の救援に赴き、敵を背走させた後、見事な戦死を遂げたが、アテナイは国費をもって彼をその戦没の地に埋葬し、大いにその名誉を顕彰したという。

第二に幸せな者は、クレオビスとビトンの兄弟であるという。体力に恵まれた二人は体育競技に優勝しており、さらに次のような話が伝わっている。アルゴスでヘラ女神の祭礼のあった折り、彼らの母親をどうしても牛車で社まで連れて行かねばならぬことになった。ところが牛が畑に出ていて時間に間に合わず、二人の青年が牛代わりに車を引き、母を載せたまま45スタディオンを走破し、社についた。祭礼に集まった群衆の見守る中でこの仕事をなし終えた二人は実に見事な大往生を遂げたのである、と。自らの幸福が庶民以下のものと判断されたことに立腹したクロイソスに対して、ソロンは表題の言葉を返します。すなわち、「誰も死ぬまでは幸福ではない」と。クロイソスに対するソロンの返答はたいへん含蓄のある内容ですので、やや長いですが、その全文を紹介いたしましょう(松平千秋訳)。

「クロイソス王よ、あなたは私に人間の運命ということについてお訊ねでございますが、私は神と申すものが嫉み深く、人間を困らすことのお好きなのをよく承知いたしております。人間は長い期間の間には、いろいろと見たくないものでも見ねばならず、遭いたくないことにも遭わねばなりません。人間の一生をかりに七十年といたしましょう。七十年を日に直せば、閏月はないものとしても二万五千二百日になります。もし四季の推移を暦に合せるために、一年おきに一カ月だけ長めるといたしますと、七十年間に三十五カ月の閏月が入ることとなり、これを日に直せば千五百日となります。さてこの七十年間の合計二万六千二百五十日の内、一日として全く同じ事が起るということはございません。
さればクロイソス王よ、人間の生涯はすべてこれ偶然なのでございます。あなたが莫大な富をお持ちになり、多数の民を統べる王であられることは、私にもよく判っております。しかしながら今お訊ねのことについては、あなたが結構な御生涯を終えられたことを承知いたすまでは、私としましてはまだ何も申し上げられません。どれはど富裕な者であろうとも、万事結構ずくめで一生を終える運に恵まれませぬ限り、その日幕しの者より幸福であるとは決して申せません。腐るほど金があっても不幸な者も沢山おれば、富はなくとも良き運に恵まれる者もまた沢山おります。

きわめて富裕ではあるが不幸であるという人間は、幸運な者に比べてただ二つの利点をもつに過ぎませんが、幸運な者は不幸な金持よりも多くの点で恵まれております。なるほど一方は欲望を充足したり、ふりかかった大きな災厄に耐える点では、他方より有力ではございましょう。しかし幸運な者には他方にない次のような利点がございます。なるほど欲望を満足させたり、災厄に耐える点では金持と同し力はございますまい。しかし運が良ければ、そういう事は防げるわけでございます。身体に欠陥もなく、病いを知らず、不幸な目にも遭わず、良い子に恵まれ、容姿も美しい、という訳でございますからね。その上更に良い往生が遂げられたならば、その者こそあなたの求めておいでになる人物、幸福な人間と呼ぶに値する人物でございます。人間死ぬまでは、幸運な人とは呼んでも幸福な人と申すのは差控えねばなりません。

人間の身としてすべてを具足することはできぬことでございます。国にいたしましても、必要とするすべてが足りているようなところは一国たりともございませぬ。あれはあるがこれはない、というのが実情で、一番沢山ある国が、最も良い国ということなのでございます。人間にいたしましても同じことで、一人一人の人間で完全に自足しているようなものはおりません。あれがあればこれがないと申すわけで、できるだけ事欠くものが少なくて過すことができ、その上結構な死に方のできた人、王よ、さような人こそ幸福の名をもって呼ばれて然るべき人間と私は考えるのでございます。いかなる事柄についても、それがどのようになってなったのか、その結末を見極めるのが肝心でございます。神様に幸福を垣間見させてもらった末、一転して奈落に突き落された人間はいくらでもいるのでございますから。」

クロイソスはこの話を聞き、現在ある幸福を捨てて万物の結末を見よ、などという男は馬鹿者に違いないと思いこみ、即刻ソロンを立ち去らせました。ソロンの去った後、クロイソスにはいかなる結末が訪れるのでしょうか。興味ある人は是非、ヘロドトスの『歴史』で続きをお読み下さい。

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