Ipse dixit. を直訳すると「彼自身がそう言った」となります。キケローの『神々の本性について』に見られる言葉です。
この文の主語は、ピュータゴラース派の師、ピュータゴラ-スその人を指します。この学派の人間は議論の論拠を求められると、きまってこの言葉を口にしたとキケローは言います(厳密には作品の中の人物がそう言います)。
言葉を補えば、「だって先生がそう言われたんだから(正しいに決まっている)」というニュアンスになります。これが格言として一人歩きすると、判断の基準を何らかの権威に置くような、根拠なき主張を揶揄する表現として用いられます。
これに対し、「自分はこう考える。自分はこう思う。」に相当するラテン語は cogito(コーギトー)一語で事足ります。デカルトに Cogito ergo sum. (われ思うゆえにわれあり)という言葉がありますが、今の文脈に即して訳せば、「私は自分で考える。それゆえ私は生きている」となります。
ラテン語の sum という動詞はこれ一語で「われあり」すなわち「自分は生きている」ということを意味します。逆に、自分で考えることをお留守にして、Ipse dixit. と口にする人は、”ergo non sum.” すなわち、「ゆえにわれなし」となるのではないか、つまり、判断の根拠を権威に求める癖がつくと、生の実感が希薄になる恐れがあります。
ちなみに、表題の訳「しのたまわく」とは、『論語』における「子曰」の読み下しとして知られます。「先生(孔子)が言われた」という意味です。たとえば「あのひとは何かというと『論語』を(権威として)持ち出す。何でも『子曰』だ」という例文を考えてみると、この「何でも『子曰』だ」という言葉の否定的なニュアンスが、表題の Ipse dixit. に認められるということです。
『論語』を学び知識としてその内容を知っていても、実践に生かせない人は、「論語読みの論語知らず」と言われます。ラテン語にも、「本を読んでもそれを理解しないことは、本を読まないのと同じようなものである」(Legere et non intellegere est tamquam non legere.)という言葉があります。
頭でわかっているだけでは本当に理解したことにならないという考えは、古今東西を通じて変わらない真理のようです。
キケロー選集〈11〉哲学IV―神々の本性について 運命について
キケロ Marcus Tullius Cicero
De Natura Deorum 神々の本性について、山下太郎訳
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