英文読解力をいかに伸ばすか

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大学受験生に向けて

大学入試や各種検定試験の英語において,いわゆる読解力の向上は諸君の最大の関心事であろう.しかしこれがなかなか思うようにはかどらない.実は試験の英語の文章は,多くの英米人にとっても難しいものに違いない(英検1~2級,大学入試など). それは日本人だという理由だけで現代国語の問題文を味読できるとは限らないのと同様である.日本語を学ぶアメリカの学生が,和英辞典を引きながら日本の現代文に取り組む姿を想像して見給え.それが諸君の置かれた状況をよく説明している.しかも試験の当日は辞書さえ諸君の手から奪い取られるのである!

しかしこのアメリカの学生を甘く見てはいけない.ひょっとすれば,諸君が四苦八苦する日本語の文章でも,2,3回読み返すうちに,だいたいどういうことが書いてあるのか見当がつくかもしれない.ちょうど日本の学生の中にも,ラッセルだろうがモームだろうが,辞書なしに2,3回読んでその主張が理解できる者がいるように.

事実このような学生こそ,大学がテストをしてスカウトしたい生徒にほかならない.要するに母国語で書かれた文章もろくに読めない生徒が,外国語の文章なら自由に読みこなせるという話はないということである.逆に言えば,母国語の理解力が高いレベルにある者が地道に文法と語彙を学ぶことによって,やがてその外国語を読み書きできる可能性も開けるのである.

ではこの母国語の理解力とは,どうやってわかるのか.一つの大雑把な傾向を言えば,マンガは好きだが本は読まないと言う者は,まず間違いなく英語の長文は読めない.言い換えれば,文章を読んで「感動する心」をどこかに置き去りにした者である.例えば走ることの好きでない人間は,マラソンランナーの孤独とかその喜びは,とうてい理解できないだろう.その逆に,もし一度でも長い距離を走り,言葉では言い尽くせぬ喜びを味わった者なら,多くを語らずともその感激を理解できるだろう.

つまり,読書の習慣を持たない者は,何語であれ長文は苦痛なはずであって,英語だから読めないと言うのは,自分の読書嫌いを棚に上げた言い訳ではなかっただろうか.これでは英語がかわいそうである.またそういう事情も知らずに大学に行こうとする諸君もまた気の毒である.そもそも大学とは,数多くの読書を通じて自分の意見を磨き,それを発表する場ではなかったのか.

では,私は諸君に大学にいく資格はないと主張しているのだろうか.資格の有無は私ではなく,諸君の心が常に教えてくれる.試験に「長文問題さえなかったら」とか,「単語のレベルをもう少し落としてもらえないだろうか」とか,「せめて辞書を持ち込み可能にしてくれたら…」などと心が弱気になってはいないか.それは長距離が嫌いな者が,せめてあと1キロ短かったらいいのに…と考える態度に似ている.繰り返しになるが,距離の長短にかかわらず,そもそも走ることの好きでない者が体育会の陸上部に入った悲劇を私は心配する.

しかしこの問題はもっと建設的に考えることもできる.英文読解が苦手な生徒は,英語自体嫌いな場合が多い.なぜ嫌いかというと単純に英語がわからないからであり,その原因はしばしば中学時代にさかのぼる.だが賢明にもその事に気付き,日々努力することによって徐々に苦手意識が薄らいできた者には望みがある.それは,英語を好きになってきたことを意味するから.従って次の課題は,できる限り早く英語の実際の文章にふれて英語を読む楽しさを味わうことである.

とはいえ,本当はここからがしんどいのである.辞書を始終引いて単語を覚えていく必要があるから,常に「無知なる自己」をはがゆく思わなければならないだろう.模擬試験でも,内容の吟味よりも下線部に知らない単語がないかが,まず気になるところである.だがあせりは禁物である.勝負は今始まったところなのであるから.もし単語をどうしよう…と口にする者は自分の辞書をつくづく眺めるがよい.まだまだ序の口ではないか.もっと下線を引き込める余地が一杯ではないか.今から新しいスタートを切るつもりでこの辞書を引きつぶす覚悟を固めてほしい.

ところで,単語とのつきあいは,人づきあいと同じである.つきあいが先にあって,しかる後に,その人の名前や性格などをもっと詳しく知りたくなっていく.そして自然とクラスメイトの顔や名前などは覚えていく.こうした経験をへて,やがて卒業をしてからアルバムの写真を見ると,そこにはよく知った顔もあれば,あまり見たことのない者も,あるいは口を聞いたことのない者もいるだろう.当然つきあいの深さに比例して,その顔と名前が脳裏に焼き付いているはずである.大事なのは日頃のつきあいである.その証拠に一生つきあう自分の名前を忘れることは考えられないのである.

市販されている単語集とは,まさにこの卒業アルバムと同じと考えてよい.単語とのつきあいとは実際に英語を読み続けることであり,その過程において諸君の感じる喜怒哀楽の情は,まさしく学校生活を送る上で感じるそれと同様である.諸君は休まず英語を読み続けなければならない.筆者の意見に胸を熱くしたり,難解で投げ出したくなったり(学校に行きたくなくなることに似ている!),様々に感じることを通して,次第にひとつひとつの単語と親しくなっていく.

この意味で,日頃英語の文章と親しくしていない者は,登校拒否の生徒(友達との接触はない)と同じ立場であると言える.彼が卒業アルバムをもらっても恐らく何の感慨もわかないのと同様に,日頃英文を読むことを忘れてしまった者が単語集を手にしても,単なる「未知の」単語の羅列が目に映るだけであろう.

結論から言えば,親友の名前は付き合いの中で「自然に」覚えられるように,英語の単語も,文章を理解する作業の中で「自然に」覚えていけるはずである.ただし辞書を引かなければ,決して自分から名乗らないのが単語の特徴であるが.ちょうど親しい間においても,こいつにはこんな一面があったのか,と驚かされることがよくあるように,英語の単語も,同じ綴りでいくつもの大事な意味を持つものもある.

あるいは派生語とはいわば親と子,兄と弟の関係に等しいのである.確かに,あの兄弟はお互いよく似ているなあというインパクトは,二人の姿をより強く脳裏に焼き付けよう.同義語とは仲の良い二人みたいなもので,片方の姿を見たらもう片方のことを思い出すのが常である.一方反意語とはいつも喧嘩ばかりしていた二人と思っていいわけだ.

英語の文章を読むという問題は,多分に人間臭い作業である.精読だろうが多読だろうが,何をやっても構わない.肝心なことは,できる限り多くの文章に接し,ひとつひとつに自分の心を動かしながら,英文を読むことの真の喜びを数多く経験することなのである.

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この記事を書いた人

ラテン語愛好家。京都大学助手、京都工芸繊維大学助教授を経て、現在学校法人北白川学園理事長。北白川幼稚園園長。私塾「山の学校」代表。FF8その他ラテン語の訳詩、西洋古典文学の翻訳。キケロー「神々の本性について」、プラウトゥス「カシナ」、テレンティウス「兄弟」、ネポス「英雄伝」等。単著に「ローマ人の名言88」(牧野出版)、「しっかり学ぶ初級ラテン語」、「ラテン語を読む─キケロー「スキーピオーの夢」」(ベレ出版)、「お山の幼稚園で育つ」(世界思想社)。

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