小学校で英語を教えて大丈夫?で考えたこと

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1996年に書いた原稿を再掲します。

私は小学校6年生のとき,毎日塾に通っていました.日曜日も模擬試験を受けていました.夏休みの宿題は,国語,算数,理科,社会の分厚い参考書の問題を最後まで解いて,ノートを提出するというものでした.初めのうちは真面目に問題に取り組んでいましたが,だんだんやる気がなくなり,そのうち答えを丸写しするようになりました.しかし,それも馬鹿らしくなってきて,結局ほとんど何もしないまま夏休みは終わりました.後ろめたい嫌な気持ちだけが残りました.2学期最初の授業で,担任の先生にノートの提出を求められましたが,私は何も出すものがありません.塾長に竹のさおでお尻を思いきり叩かれたことを今でも思い出します.みなさんならどうしますか?答えを写してでもちゃんと提出すればよかったのでしょうか?

自力で分厚い問題集を解けるなら,塾に行かなくても大丈夫なはずです.解き方を教えるのが先生の仕事ですが,それを自宅でやってこいというのでは責任放棄です.第一先生は,生徒たちのノートの採点をちゃんとしたのでしょうか?怪しいものです.一時が万事,塾での勉強はつまらないものでした.徹底的に難しい問題を難しく説明された不愉快な思い出は,今でも忘れません.みなさんが,レポートで,I don’t like English, because it is difficult.(英語は嫌い。だって、難しい)とかくとき,私は反射的にこの頃の自分の経験を思い出すのです.

では,何が私の勉強をこれほどまで味気なく,つまらないものにしたのでしょうか.今なら思い当たることがあります.ひとつは,塾で扱っていた問題(=入試問題)そのものが悪いことが挙げられます.国語の問題だと,文中に空欄があり,適当な接続詞(「だから」とか「そして」)を選ぶという形式があります.指示代名詞(「それ」など)が何を指すかを問う問題もあります.私は本を読むことが大好きで,図書館の本ならたいてい読んでいましたが,こういう細かい問題はじんましんができるくらい嫌でした.説明を聞きながら,黒板の字をノートに写すのは最も馬鹿らしいと思いました(生意気でしたからね).とまあこんな調子ですから,社会や理科といった暗記教科の試験は,いつも知らないことだらけの自分を思い知らされる嫌な時間となりました.

勉強がつまらなかった理由の2つめは,教師の態度にありました(今悪口言っても時効ですね).「高得点の人間ほど偉い」という価値観を嫌と言うほど聞かされました.試験を受けると,平均以上でないとガミガミ叱られるわけです.親もよく呼び出されました.かわいそうだな~と思うこともよくありました.でも,仮に塾の指導のおかげで,生徒の得点が上がるとどういう結果が待っているのでしょうか?

叱る前のクラスの得点分布図が「A君80点,B君70点,C君60点,D君50点」平均65点とします.このとき,C君,D君が叱られます.一方叱られた後の結果が,順に「90点,80点,70点,60点」になったとします.平均は75点です.これまた同様にC君,D君は叱られるのです.本人は努力したつもりでも,常に上には上がいるのです.先生は「前より10点上がった」とは褒めず,「相変わらず平均以下しか取れないな」と叱るとしたら,悔しいですね.

「10点上がった」といくら主張しても,「簡単な問題だったから平均も高い」と反論されたら,腹が立ちます.でも,子供には数字を前にした議論では大人に勝てません.大人は結果の数字にこだわりますが,「頑張った」という子供の真摯な主張にはまったく聞く耳を持たない傾向があります.

ちなみに,今の私はこの問題をどう見ているのか?といわれると,逆に,今の教育の理想は何なのか?と聞くことにしています.どうみても,上記の担任の理想は,クラス全員が100点を取ること以外にないかのようです.究極的には,教え子がみな100点を取ること...生徒の個性は二の次で..という感覚は,壊れた機械を修理する技術士の感覚です.そうです,満点主義とは減点主義の異名であります.

大体,私は変わった子でした.学校に忘れ物をよくしました.いつもいろんな空想(妄想?)で頭はいっぱいでしたから.ランドセルを学校において帰ったこともありました.学校の帰り道には,面白いものがいつもいっぱいありました.わたしは段ボールを分解して,のりとはさみでいろんなものを作ったりするのが大好きでした.学校の帰り道に,お店の前に捨ててある段ボールの箱は必ず拾って帰りましたし,手で持ちきれないときは,頭にかぶって家まで歩いて帰りました.

大人から見るとどんなに馬鹿げたことでも,子供は小さな心の中にいつも大きな夢をふくらませて生きています.勉強が好きで好きで仕方がない子供も中にはいるでしょうが,そうでなければ,押しつけられた勉強を強いることは,子供の心の風船に針で穴をあけるようなものです.

  さて,ここで本題に入りましょう.例えば,英語の学習を小学校から導入する是非をめぐってどう考えればいいのか,という問題について,上にあげた経験から導かれる前提を元に考えてみますと,私はまず第一に,英語とは世界のいろいろな人間同士が心を通わせるための1つの道具に過ぎない,という点を強調したいと思います.

日本では受験の科目となってますが,何もその目的のために特別に開発された言語なのではありません.世界の人々(何もアングロサクソンに限らない!)が,お互いを理解し合うためにごく普通に利用している一言語に過ぎないのです.建前上は,アメリカ人,イギリス人の言葉ですが,その他の国々の人々も,平気で文法を無視した表現をしながら,冗談も飛ばしながらごく自然にやりとりをしている..というのが私の正直な観察結果です.

日本人の英語コンプレックスには相当なものがありますが,皮肉なことに,日本人が,世界一難解な英語を学び,理解しようともがいている気がいたします.(例えば,我々が受験英語で習った読解文ですけど,あれは世界の若者が気楽に読める内容でしょうか.教養あるイギリス紳士なんかがお茶を片手に熟読すると似合うでしょうけど.).

そこで,小学生には,受験英語だけは教えたくない!というのが私の切なる願いです.受験英語を教えてくれる先生は,そんな世界一高級な英語を見事に分析して教えて下さるので,尊敬に値しますけど,それとこれとは話が別です.根拠は,上記前提1~3を見て下さい.どうです,受験英語は,見事なまでに,わたしの嫌いな勉強スタイルのすべての要素を兼ね備えていますね.きっと英語嫌いの子供たちを量産することでしょう.(えっ,私は例外だから,いっしょにするなって?)

今,英語をコミュニケーションの手段とみなす必要を指摘しましたが,この前提に立つとき,われわれは,受験勉強では扱わない未知の領域に突入することを余儀なくされます.その1つが「瞬間英作文」です.「英作文」という言葉も変な日本語ですが,要は日本語を英語に直す訓練を指しています.高校では,予習しても答えが違うんで,黒板の答えをひたすらノートに写すことを「英写文」ならぬ「英作文」と呼ぶようですが,私が重視するのは,どの程度の英語までなら,ほぼ同時に日本語→英語が口に出せるだろうか?という点です.

たとえば,「ありがとう」→thank youは誰でもできますね.この調子であらゆる日本語の表現を英語に直す練習をしていたら,それこそ一生かかっても間に合いません.どこで手を打つか?私は「中学英語」と答えたいと思います.すなわち,「とりあえず」中学英語ならどの例文でも,日本語→英語がストレスなく口をついて出てくる状態を準備(回復)しましょう!というのが私の社会人,大学生に対する提案です.高校生にも中学生にもこの学習の重要性は当てはまります.

今述べたことは,受験英語とは根本的に違うベクトルを向いています.実際何か文章を書いたりする場合でも,ほとんどのことは,この中学英語で間に合うのです.でも,そんな簡単なことなら,なぜみな英語に苦労するのでしょう?答えは受験英語が「そんな簡単な英語」には目を向けさせないからです.この罪は重い!!ためしに「父は1時間で戻ってきます」を英語で言って下さい.forでなく,ちゃんとinが出てきましたか?withinとinの違いはだいじょうぶですか?読んでわかるからやらなくていいというのは,おかしい理屈です.漢字だって,書ける漢字は読めますが,読めるからと言って,ちゃんと書けるとはかぎりません.

さて,実際の所,日本では中学でどんな英語を習うのでしょうか?中学で教える英単語はたいへん限定されています.むしろ,英語表現のほとんどのパターンを含んだ文法を徹底的に教える(紹介する)のです.その証拠に,毎回のように新しい例文を先生は黒板に書かれるので,中学時代は,単語ではなく,みな文法で苦労するのです.

例えば,中学1年生の例ですが,Are you a student?と疑問文を作ることを習ったかと思うと,今度は,Do you play tennis?というのが出てきます.生徒はこれらを混同し,Are you play tennis?とか,Do you a student?と間違います.次に現在進行形が出てきたら,もう目が当てられません.Do you playing tennis?という間違いが多発するでしょう.

文法は大切です.「私は犬を飼っています」という日本語は,順序を無視すると,I a dog have.とこたえるかもしれません(もっともラテン語なら語順は無視していいんですけど).で,中学時代は,何を答えても「何時も」自分は間違う..という恐怖感,劣等感から逃れられません.そんなこんなで,高校に上がると,「文法」事項で新たに教えることはほとんど残ってませんから(仮定法くらいでしょうか),むやみやたらに単語が出てくる,出てくる..という次第.

そこで英語教育についての提案その3ですが,中学では文法のより単語の力を大いにのばしてあげましょう!えっ,単語?そんな馬鹿な,あんな「暗記」を中学生にさせるつもり?とおっしゃるかもしれません.私はNoと答えます.「暗記」は私も大嫌いです.「覚えない」で「覚える」のです.たとえばThat is a pen. Is that a pen?も大切ですが,penのかわりにどんな言葉が入るかな?と1人ずつ聞いていっても面白い(子供の想像力をくすぐるわけです).

動物編で攻めると,子供たちは喜んで,自分の知っている動物の名前を英語で言おうと調べます.That is a Tigers.(阪神ファンの生徒)とかThat is a Giants.(負けじと巨人ファン)というのも出てくる.そんなこんなで数人はもつ.単数,複数がどうの..と少々間違ってもめくじらをたてたら駄目です.女の子には,花の名前がいいでしょう.That is a lily.とかThat is a rose.など,出てくる出てくる.和英辞典は引いていいからね,といってあげましょう.実は先生も知らない言葉がいっぱい出てくるのです(みなさん「あじさい」の英語を知ってます?).

中学生は目立ちたがり屋がいるので,人のあっと驚く動物や,昆虫の名前や,魚の名前もいっぱい出てくることでしょう.しりとりをしてもいいかもしれません.こんな遊びをみんなでガヤガヤやっていると,黒板はいつも一杯になるでしょう.教える単語数を制限する方針には断固反対!というのが私の提案です.暗記しろといわずに,辞書を引きたい気持ちに誘導すること,たくさんの単語があるって面白いなと感じる気持ちを育むことが何より大切です.(「受験に関係ない」という悪魔のささやきはこの際無視.第一「関係あること」ばかりやって,英語がすきになりますか?)

提案その4:高校では,文法(中学で習ったレベル)のおさらいをむしろ丁寧に.英文法は高校生の頭でやっと理屈がわかるはずです.その有り難さもわかるでしょう.これに平行して,自分の考えをどんどん英語で書き出していく練習もやるべきです.高校生は「自分が何者か?」に興味を持っていますから,単語の暗記より,書くことの方が面白いと思える時期です.書いていると,うまくかけない自分がもどかしくなってきて,上手に書いている友達の文章や,英米人のテキストの文章のまねがしたくなってくる.

人間はだれだって,真似から入るのです.大いに真似しながら,自分のスタイルが何か,研究させればいいでしょう.高校3年間にわたって,日記やメモを英語でかくとか,文通(e-mailのやりとり)を英語でするとかすればかなり力がつく,というか,少なくとも英語を苦痛に思わなくなるでしょう.(ビデオで洋画を見る,英語の歌を聴くというのもたいへん有効ですが,これは誰もが言うことですから省略).

先に受験勉強では扱わない未知の領域,その1つが「瞬間英作文」と答えましたが,その2つめは何か?それは,「答えのない問題を解くこと」です.すなわち「自分の判断」をくだす訓練です.受験勉強の味気なさは,ひとことでいえば,答えのある世界を前提とすることによって生じるといえます.出題範囲をリサーチし,答えのパターンを暗記することで,試験でその結果を吐き出せば正解が得られる仕組みなのです.

いかに人があっとおどろくユニークな答えを出すとかではなく,満点が存在し,どれだけミスをしたか(しなかったか)で,優劣が決まる仕掛けです.しかし,英語とは,生きた人間と人間が心を通い合わせる道具なのです.道を尋ねてきた人には誰であれ,助けてあげたい!と思う心がなければ,その気持ちを形に表す訓練は意味を持ちません.この気持ちが言語活動の大前提です.

たしかに英語となると緊張はしますが,道を尋ねた外国人は,あなたが何か答えようとしたとき,その親切な気持ちを理解できないほどの頑固者でしょうか?あなたに道案内を求めながら,その説明が下手であるとか,ここんとこ表現が間違っている!とか指摘する教師のような存在なのでしょうか.絶対そんなことはないはずです!!嘘と思った人は,清水寺や平安神宮あたりに行って,外国人に声をかけて実験してみよう.

鉄則:外国人は英語の先生ではない.君と同じ人間である.まこと感謝を知らない横柄な人間なら,何も話さなくてもよい.それは君の判断に基づく.だが,「自分は英語が話せない」という先入観から,見て見ぬふりをしてはいないか?その先入観とは,学校教育がつくりあげた幻想ではあるまいか.だが,何かのせいにすることは責任ある態度ではない.発想を根本から見直して,英語で考える時間を増やし,いざというときに備えるべきである.

~~~~~~~~~番外編~~~~~~~~~~~~
判断を問われることは難しい.判断放棄するとは,先例に従おうとすることである.マニュアルどおりに生きることである.間違わない人間をいくら増やしても世の中は面白くならないし,よくならない.むしろ,受験勉強で「間違わなかった」エリート官僚が,日に日に日本を悪くしている.世界はかつてないスピードで変化している.だが,この急激な変化に対応するマニュアルなどどこを探してもない.

マニュアル通りに生きることは,本人も面白くない.面白くないことはどこか間違っている(上記前提を参照).子供用のゴーカートは安全のために,レールがついている.こんなものは面白くない.教習所の車の練習も,最初はよくてもそのうち飽きる.実際の道は,危険でいっぱいだ.危険だから面白いのだ.未知をめざしてハンドルを切る喜びが開かれている.難しいことは面白い.これが私の信じる大原則.だれだって,いきなり自転車には乗れないけれど,補助輪を親に頼んではずしてもらった幼い日の経験ーーーあれは,とっても大切な儀式だったのだ.

ついでに言えば,親に内緒で遠くまで自転車を走らせようとした経験はないか?自転車に乗れようが乗れまいが,人生とは関係ないと大人の頭は思うだろうが,自転車も勉強も同じ原理が貫かれていると僕は思っている.要は子供の「自己責任において生きる」意志を尊重すること.教育の原理はここにある.

「汝自らを知れ」という言葉がある.満点主義において自己を知る道はない.点数で評価される自分とはいったい何者なのだろうか?同点の人間は同じ価値しかないのだろうか? 我々はスペアがきかない,これが本来の人間の姿ではないか.だからこそ生きてみて,それを知る権利があるといえる.

子供は真実に敏感だ.機械的な学習の強要や,意味のない学習は,みんな生理的に拒絶する.「自分の判断」が求められない学習は,好奇心に満ちた子供の目をどんよりと鈍らせていく.子供が夢中になるものは,みんな正しい!!少なくとも,大人が執着する世間の評価や満点主義なんかよりも!!

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この記事を書いた人

ラテン語愛好家。京都大学助手、京都工芸繊維大学助教授を経て、現在学校法人北白川学園理事長。北白川幼稚園園長。私塾「山の学校」代表。FF8その他ラテン語の訳詩、西洋古典文学の翻訳。キケロー「神々の本性について」、プラウトゥス「カシナ」、テレンティウス「兄弟」、ネポス「英雄伝」等。単著に「ローマ人の名言88」(牧野出版)、「しっかり学ぶ初級ラテン語」、「ラテン語を読む─キケロー「スキーピオーの夢」」(ベレ出版)、「お山の幼稚園で育つ」(世界思想社)。

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