自由と責任

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自由と責任

「自由」という漢字は、元来は欲望からの解脱(げだつ)を意味する仏教用語に由来する。何ものにも拘泥しないとらわれない心が「自由」ということになる。一方で、「自由」と聞けば、私たちは「思うまま、気まま」という言葉を連想する。昨今の日本では、「自由に生きる」と言えば「気ままに生きる」ことであり、「欲望の赴くまま生きる」ことと同義であると受け取られがちである。つまり、今の日本語で使われる「自由」とは、本来の「自由」とは逆の生き方を連想させる言葉でもある。

一方、英語で「自由」を意味する言葉 と言えば、フリー(free)を思いつく。その名詞がフリーダム(freedom)である。ビートルズの曲に ”Free As A Bird”というのがあるが、自由のイメージは、しばしば大空を飛ぶ鳥を連想させる。freeの意味を英和辞典で確かめると、「何かにとらわれない、縛られない、制約を受けない」状態を意味する言葉と定義されている。

ところで、何が人間の自由を妨げるのか?と言えば、先に挙げた「欲望」ということになる。とりわけ金や権力、名誉に対する執着心がその最たるものである。「欲望」を表す英単語は desire が一般的であるが 、love (愛)という語もよく用いられる。「金銭欲」といえば、love of money、「権力欲」は、love of ambition といったふうに。同様に、ラテン語でも「欲望」は amor (アモル=愛)と呼ばれる 。

たしかに、理屈の上では、「欲望」を抑制すれば「自由」が手に入るということになるが 、ことはそう簡単ではない。アモルは人間の生きるエナジー(energy)の象徴であり、人間が幸福を実感する上でアモルは不可欠である、とする考えも古来有力である 。これに対し、ギリシアの哲学者エピクーロスは、「心の平静(アタラクシア)」を得るために、欲望の抑制を強く主張した 。今日、欲望に身を任せる「快楽主義者」のことを「エピキュリアン(Epicurean)」と呼ぶのはいささか皮肉なことと言わねばならない。

一方、「責任」という日本語に対応する英語としては、responsibility が思いつく 。この言葉の語源は、respondere(レスポンデレ) というラテン語で、意味は「応答する」というものである。車やバイクのアクセルの「応答性」がよいことを「レスポンスがよい」というが(英語では responsive という)、この response という英語も、ラテン語の respondere が語源である。アクセルを踏むと車がすっと前に出ていき、ゆるめると車は減速する。同様に、ある行為を行うと、その結果が必然的に伴い、行為を行わないと何の結果も生じない。両者にはイメージの共通性が見られる。

「責任」という日本語は、どちらかといえば「義務」という意味で用いられるが、英語の responsibility は、今述べたように、アクセル、ブレーキ、ハンドルをコントロールするドライバーの「責任」をイメージした方がわかりやすい。すなわち、responsibilityは、その語源に照らせば、自分の意志を忠実に反映した自由な行為というイメージと結びついている。

たとえば、車のハンドルを握る人は、安全に運転する「義務」とともに、運転の「自由」と「喜び」を感じることができるが、電車に乗るとき、乗客に安全運転の「責任」はない。それゆえ昼間から車内で居眠りすることもできる。このように「責任」を伴わない行為は、「安全」であるが、面白くない。このことに関連してバーナード・ショーは次のように述べる。「自由とは責任のことだ。だから人は自由を恐れる(”Liberty means responsibility” That is why most men dread it.”)」と。

以上の言葉の分析をふまえ、わたしは、政治や教育についても、個人の「責任」の所在を問題としたい。政治不信を言う前に、政治を人任せにしていないだろうか。学校教育への不満を訴える前に、教育を人任せにしていないだろうか、と。政治家の無責任を言う前に、有権者の低い投票率が問題なのである。「自分一人くらいどうってことない」という意識は誰にでもある。しかし、その意識が観光地の空き缶の山を作るのではないだろうか。同様に、有権者の多くが「自分一人くらい」と考える癖がつくと、政治の世界にもたくさんの空き缶の山が出来上がるのではないだろうか。

日本が立派な国になるためには、国民の一人一人が「責任」という言葉の意味をよく考える必要がある。かのチャーチルも「偉大さの代償は、責任だ(The price of greatness is responsibility.)」と述べている。繰り返すが、英語の発想において、「責任を取る」とは謝罪を意味するのでもなければ、義務の遂行を意味するのでもない。むしろ、各自が自分の判断で自分の行動を律する態度を意味している。まずは、ひとりになって考えることから始めたい。自分流の生き方、物の考え方、感じ方を確かめるために。

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この記事を書いた人

ラテン語愛好家。京都大学助手、京都工芸繊維大学助教授を経て、現在学校法人北白川学園理事長。北白川幼稚園園長。私塾「山の学校」代表。FF8その他ラテン語の訳詩、西洋古典文学の翻訳。キケロー「神々の本性について」、プラウトゥス「カシナ」、テレンティウス「兄弟」、ネポス「英雄伝」等。単著に「ローマ人の名言88」(牧野出版)、「しっかり学ぶ初級ラテン語」、「ラテン語を読む─キケロー「スキーピオーの夢」」(ベレ出版)、「お山の幼稚園で育つ」(世界思想社)。

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