『牧歌』第四歌では、大地の自発性が新しいヘシオドス的黄金時代の特徴として示され、「すべての土地はすべてのものを生むだろう」(39 omnis feret omnia tellus)と言われています。他方、『農耕詩』ではこれとは対照的に、
「だが、すべての土地がすべてのものを生むことはできない」 (2.109 Nec uero terrae ferre omnes omnia possunt)
と言われています。ちょうど、異なった木々が異なった地域に育つように、異なった国々はそれぞれの特産物を持っているというわけです(2.110-135)。 『農耕詩』における否定辞Necは、『牧歌』で示された黄金時代のビジョンを否定する言葉として、一見鉄の時代への言及を導くかと思わせます。しかし、実際にはこの表現の直後に「イタリア賛歌」(2.136-176)が用意され、黄金時代にも似たローマの繁栄が描写されていきます。 ところで、今見た「すべての土地がすべてのものを生むことはできない」という『農耕詩』の表現は、一方においては
「すべて(の樹木)がすべて(の実)を生むことができるだろう」 (1.166 ferre omnes omnia possent)
というルクレティウスの表現を連想させます。この表現は「何ものも無からは生じない」というエピクロス哲学の根本原理を反映したものです(cf.1.155-156)。すなわち、もしこの原理が正しくないとすれば、
「あらゆる物があらゆる物から生まれ、種も不要となるであろう。人間は海から生じ、大地から魚や鳥が生まれ、家畜や動物は空から溢れだす。木々は同じ果実を生むことがなくなり、すべて(の樹木)がすべて(の実)を生むようになるだろう。(1.159-166)」
このように、ルクレティウスにおいてはエピクロスの原子論、とりわけ再生の原理を語る前提として、自然界の多様性の問題が論じられているのです。ルクレティウスは「何ものも無からは生じない」(1.205)と述べ、「いかなるものも無に帰することは絶対にあり得ない」(1.237)と語った後、
「であるから、物は一見死滅するかのように見えても、実は完全には死滅することがない。自然が一つの物を作るのには、他の物から作りなおすのであって、いかなる物でも、他のものの死によって補われることのない限り、生まれ出ることは許されない。」(1.262-264)
と論じています。
この見解は、『農耕詩』の多様性のテーマにも大きな影響を与えています。ウェルギリウス自身、自発的に育つ植物の種類を列挙した後、
「これらの多様な成長の方法は自然が定めたものであり、またこの原理に基づいてすべての植物は青々と生い茂る」(2.20-21)
と述べています(両箇所のラテン語の対応関係が認められます)。
一方、続く箇所では、人間の「経験」が発見した接ぎ木の方法を説明しています。つまり、人間が技術を用いて「自然を思いのままに作りかえる可能性」について物語っています。この見解は「万物は定められた種から生じ、各々の種を維持する」(1.189-190)というルクレティウスの考えと真っ向から対立するものといえます。
とはいえ、ウェルギリウスはルクレティウスの言う再生の原理そのものを否定しているわけではありません。人間の世話を待たずに繁茂する植物の生命力に注目する一方、多様な技術がこの再生の原理を利用することによって、より大きな多様性をもたらす可能性を示唆するのです。
このように見てくると、ルクレティウスの扱った多様性のテーマは、『農耕詩』において、その主題、すなわち「人間の技術が文明の発展を導く」(cf.1.118ff.)という考えと密接に関わる形で導入されていることがうかがえます。