『西洋古典学研究』XLI(1993)pp.110-113
FEENEY,D.C.: The Gods in Epic. Poets and Critics of the Classical Tradition. Pp.449, Clarendon Press, Oxford, 1991.
本書は,古代の叙事詩に見られる神々の役割,言い換えれば神話の機能について論考したものである.筆者は当然予想されるホメロスの作品の分析から始めるのではない.「序」において (1)「叙事詩の神々」をめぐる多様な解釈の歴史を跡付けること,(2)これらの伝統と後代の叙事詩人によって生み出された作品との相互関係を具体的に考察すること,などを本書の目的として挙げている.第1章「批評家たち」において (1)の検討が行なわれ,第2章以下ではアポロニオス(第2章),ナエウィウスとエンニウス(第3章),ウェルギリウス(第4章),オウィディウス(第5章),ルカヌスとシリウス(第6章),ウァレリウスとスタティウス(第7章)の作品が順次取上げられ,(2)の目的において子細な分析がなされている.
叙事詩における神々をどのように解するか.筆者はこの問題をめぐる代表的な解釈の流れを第1章で概観している.大別すれば (1)神話を「真実でなく偽りに満ちたもの」と批判する立場,(2)神話を合理的に解釈する立場(アレゴリー解釈やエティモロジー解釈の伝統),(3)「詩的真実」と「歴史的事実」を区別する立場(この区別を理論的に基礎付けたのがアリストテレスとされる)の3つの流れが紹介される.続いてこれらの解釈の動向がホメロスの古注に反映している事実を例証する.またこの過程において自らの解釈上の立場を徐々に読者に提示していく.「神を人間のように描くこと」,それはクセノパネスやプラトンにとり非難の対象であったが,むしろ(詩の目的を実現するための)詩人のテクニックではないのか.また神の介入の場面に関しても,神が実体ある「登場人物」として描かれる点に注目すべきではないのか.筆者はこのように神の登場および行動を詩における「真実」と認識し,それを「信じられるもの」として描き出した詩人の技巧を正当に評価しようとする.この立場は基本的にアリストテレスの理論を継承するものと言える.だが他方ではアレゴリー解釈の発展とそれが後代の叙事詩人に与えた影響についても深い関心を抱いていると言う.第4章における『アエネイス』第1巻の冒頭をめぐる分析はこのような筆者の立場をよく示す.
序歌のtantaene animis caelestibus irae? (11)というムーサへの問いは数世紀に及ぶ哲学的議論(神々と怒りの結び付きをめぐる)を反映する.この問いに対する答えとしてユノの二重の動機付けが挙げられる(この指摘についてはD.C.Feeney, The Reconciliation of Juno, Classical Quarterly 34, 1984参照).すなわち16-22において詩人はカルタゴの守護神(ローマを憎む必然性をもつ)としてのユノの位置付けを行なう一方,23-24では神話上の伝統的な女神(ヘラ)の怒りを暗示する.筆者の言葉を借りれば「詩人はエンニウスの歴史的次元とホメロスの神話的次元をひとりの登場人物の描写において融合した」ことになる.他方ユノに扇動されたアエオルスは嵐を引き起こし,アエネアス一行を苦しめる.このシーンはユノを aerとみなすアレゴリー解釈の伝統を反映する.またアエオルスに結婚話を持ち掛けるユノの科白において conubio iungam stabli(73)という表現が見られるが,これはユノの語源として動詞 iungo を指摘するエティモロジー解釈へのアリュージョンである.このような多様な解釈の可能性がユノという「登場人物」の描写において見事に融合している.この場面の分析を皮切りに筆者はユピテルやユノの言動を追いかける.そして神々をアエネアスやディドと同様にrealな「登場人物」として描くことに成功した詩人の技巧を高く評価しつつウェルギリウスの章を終える.
ところで今挙げたユノとアエオルスのシーンについて「我々はこの場面をむしろ信じないように求められている」と述べたG.Williamsのコメントを引用しながら,筆者は神話の非現実性を首唱した彼の立場を批判する.このような「神話批判」への批判という立場は全体を貫く明快な主張のひとつである.本書にはしばしば「現代人の解釈によると」といった表現が見出される.第2章において,筆者はアポロニオスの描くエロス介入の場面を不要とみなす批評家はこの詩人に現代小説を期待するようなものだと言う.エロスがメデイアに恋の矢を射抜いた後,表現上「エロス」という語は「神」なのか「恋心」なのか曖昧にされているが,どちらとも取れる点に詩人の工夫がある.この工夫は,序歌においてゼウスの意思への言及が見られないこと,主要な神々の登場が第2巻以降に持ち越されていること,ムーサに対する伝統と相違する態度が見られること,数多くのアレゴリーやエティモロジーの説明が行われること,などの要素とあいまって,詩人による「新しいリアリズム」の創造に一役買っていることを筆者は示す.また第5章では「叙事詩的でない叙事詩」として『変身物語』が扱われている.この中で「アケロオスよ,あなたが語っているのは,つくり話だ」(8.611)と述べるペイリトオスは神話の意義を解しない現代人さながらである.だがペイリトオスに反対し「神々の力は広大で,かぎりを知らない」と述べるレレクスの立場が筆者(詩人)のそれであるというのではない.ここで問題にされる神の力とは詩の力のことである.読者は神話に対するときペイリトオスとレレソスの2人でなければならない.このメッセージこそオウィディウスによる新しい神話解釈の表明であると筆者は言う.第6章ではルカヌスとシリウスが扱われている.現代人の「自然主義的偏見」によれば,ルカヌスは神の登場を詩から排除した故評価され,シリウスはそれを描いた故に低い評価に甘んじるべきである.だが「いかなる形式の叙事詩であれ神抜きに詩的効果は期待できない」とする筆者によれば,ルカヌスの成功は神の「不在」を描くことによってその「存在」を描写した筆力に求めるべきであり,一方シリウスの失敗は神の描写に由来するのではなく,詩的想像力及び技巧の欠如によるものである.その証拠にシリウスは「人間」を描いても失敗している.
ホメロスの後継者を自任する叙事詩人は皆神々の問題をめぐる解釈上の伝統を熟知した批評家でもあり,かれらの作品は「ひとつの」立場から分析するには余りにも複雑であり内容が豊富である.筆者は,多様な技巧を駆使して新しい神話の解釈を盛り込もうとした詩人たちの努力の跡を追いかける.だが「結び」には「本書を書き進めるほどにその主題の漠たる思いに駆られ,叙事詩に描かれる神々の多様性と複雑さに一層の驚きを禁じえなかった」とある.この告白に見られるナイーブな感性は,テキストの精緻な分析とともに本書の叙述を説得的で魅力的なものにしている.だが皮肉にも神々の描写の「真実性」をめぐる議論そのものは,筆者が力を込めて語るほど魅力的なものから遠ざかる.文学を学ぶ者にとり「詩的真実」を認めることはいわば研究の大前提になると思われるからである.とまれ本書が今後ひろく古典を学ぶ者に対し,有形無形の貢献をしていくであろうことは確かである.